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小田野城(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN7796.JPG←北尾根の堀切と小郭
 小田野城は、甲斐源氏の安田遠江守義定の居城と伝えられている。小田野城の南東麓には義定の御所館があったとされる。義定は、1180年、甲斐源氏の中ではいち早く以仁王の平家追討の令旨に呼応して挙兵し、その後兄の武田信義と共に富士川の戦いを始め、平家追討に功をたてた勇将であった。しかし、甲斐源氏の勢力増大を恐れた源頼朝によって、1194年に滅ぼされた。義定が自刃した場所は、放光寺とも小田野城であったとも言われる。その後、室町時代には甲斐守護代の跡部氏の詰城となった。1417年に甲斐守護武田信満が上杉禅秀の乱に荷担して滅亡した後、甲斐が守護不在状態となったことから、室町幕府は在京していた信満の弟武田信元(穴山満春)を甲斐守護に任じ、信濃守護小笠原政康に命じて信元を甲斐へ帰還させた。この時、小笠原氏の庶流跡部明海・景家父子が信元補佐のため守護代に任じられて甲斐に入国したと考えられている。跡部氏は守護武田氏を凌ぐ勢威を有し、信元の死後に6代将軍足利義教の命で武田信重が甲斐守護として入国してからも、跡部氏が実権を握っていた。1455年に信重の孫信昌が守護となった時には、信昌が幼少であったため跡部氏は専横を極めたとされる。1464年に明海が死去すると、翌年信昌は夕狩沢合戦で跡部景家を破り、景家は小田野城に敗走して自刃した。

 小田野城は、標高883mの小田野山に築かれている。東麓の普門寺の墓地に登り口の表示があり、そこから登山道が付いている。以下、曲輪の番号は『甲斐の山城と館』に従って呼称する。墓地裏から高さ50m程登ると蔵王権現等が祀られた東出曲輪(5郭)に至る。祠の背後を取り巻くように土塁が築かれている。出曲輪の南は平坦ではあるがほとんど自然地形の幅広の尾根で、どこまでが曲輪かはっきりしない。出曲輪から西に尾根を登ると、すぐ先に小堀切がある。その先の尾根をしばらく登ると、段曲輪群と堀切が見えてくる。ここからが小田野城の東尾根曲輪群となる。更にその上に細長い4郭を中心とした曲輪群が築かれている。4郭の上には巨岩がゴロゴロしており、それを突っ切ると、細尾根上の3郭に至る。3郭の後ろにも巨岩がゴロゴロしているが、その裏に小堀切がある。その上には1郭がある。1郭は2段の平場に分かれているが、段差はあまりはっきりしない。主郭の南に末広がりの腰曲輪の様な2郭がある。1郭の南西部の2郭との接続部がやや窪んだ地形になっていて、枡形のようにも見えるが形状はあまりはっきりしない。2郭から南に伸びる尾根にも南尾根曲輪群があり、段曲輪群が連なっている。先端付近に細長い6郭があり、その先に腰曲輪が数段あって城域が終わっている。一方1郭の背後の北尾根にも小郭と小堀切がある。更に細尾根が続いた後、竪堀と8郭があって城域が終わっている。
 以上が、小田野城の遺構で、曲輪群が構築されているが堀切は浅く、縄張りに技巧性もあまりなく、古風な造りの城である。戦国期には城郭としてはほとんど使用されていなかったと思われる。
 尚、この城の東の尾根道は、結構傾斜が急である上、まだ3月中旬で薮もないのに、ズボンにマダニが多数くっついていた。ちょっと注意が必要な山である。
主郭→DSCN7757.JPG
DSCN7685.JPG←東出曲輪の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.742568/138.674659/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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