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勝沼氏館(山梨県甲州市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN2240.JPG←東門の石積み基壇
(2020年8月訪城)
 勝沼氏館は、武田信虎の弟勝沼安芸守信友の居館である。信友は郡内領の目付としてこの地に配されたと考えられ、勝沼氏を称し、勝沼衆を率いて兄信虎を強力に支援して各地を転戦したが、1535年8月、籠坂峠を越えて都留郡に侵攻した相模の北条氏綱の軍勢を山中で迎え戦って、手勢270名と共に討死した。その子丹波守信元が跡を継ぎ、引き続き武田氏の有力な親族衆として軍事力の一翼を担った。『甲陽軍鑑』等によれば、1542年の信濃大門峠の合戦で逸見氏・南部氏・栗原氏日向大和守等と共に諏訪の城に布陣、1546年の関東管領上杉憲政の関東勢と上信国境の笛吹峠(碓氷峠)の合戦で板垣信方を大将とした軍勢に参陣、翌47年には上杉謙信との信濃海野平の合戦で後陣として出陣、1550年の信濃深志城攻略等に出陣、1553年の小笠原長時との信濃桔梗原の合戦に出陣、と言った具合に各地の戦いに参陣している。しかしその後、武蔵の藤田右衛門と内通したことが発覚し、1560年11月に武田信玄に誅殺されて勝沼氏は滅亡した。尚、信元の弟信厚は、相模と津久井との国境を押さえる上野原城主加藤氏の名跡を継ぎ、加藤丹後守信景と称したらしい。信景は、1582年の武田氏滅亡の際、武蔵箱根崎で北条勢に攻撃されて討死したと言う。また信友の娘という松葉は、信元誅殺後に岩崎郷の雨宮氏から離縁され、大善寺の尼となって理慶尼と称し、『理慶尼記』を著した。
 尚、最近の研究では、信友の討死後、武田氏の重臣今井氏が館主としてこの地を治めていたと考えられている。

 勝沼氏館は、甲府盆地東端の日川北岸の段丘辺縁部に築かれている。「館」というので平地の方形居館を予想していたが、案に相違して段丘崖の館であった。現在国指定史跡として整備されている。内郭は東と北の2辺を空堀で区画した曲輪で、土塁に沿って土塁を築き、北西端と南東端近くにそれぞれ北門・東門を設けている。東門は石積みの基壇があり、木橋で渡っていたらしい。内側には櫓台もある。郭内には建物群の礎石・水路・水溜・工房などが発掘され、復元表示されている。内郭外周の空堀の外には、更に土塁と空堀が構築され、北西には北西郭があったが、現在は湮滅している。さらにもう一回り外側に水路が流れ、北郭と東郭が設けられていた。東郭には、水槽式浄化施設・飲料水受水槽・職人工房など珍しい遺構が復元展示されている。東郭の東側には復元土塁があるが、枡形虎口になっていたらしい。その東は外郭で、家臣屋敷があったが復元されたものを見る限り、極めて小さな小屋であった様だ。勝沼氏館は、貯水槽・工房など他ではあまり例のない遺構が多数あり、極めて貴重な遺構である。
内郭の空堀と土塁→DSCN2248.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.659580/138.732122/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

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