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弓庄城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN3559.JPG←主郭西側の切岸・腰曲輪跡
 弓庄城は、戦国時代に新川郡一帯を領していた国人領主土肥氏の居城である。越中土肥氏は、鎌倉幕府創業の功臣で相模国土肥郷を本領とした土肥次郎実平の後裔と言われる。土肥氏は、鎌倉時代以降に在地領主化して、室町幕府や守護の度重なる命令にも関わらず、この地にあった祇園社領の荘園である堀江荘を実力で支配するようになった。実平の5代の孫実綱が、南北朝期の貞和~応安年間(1345~70年)頃に越中国新川郡堀江郷に入部したと言われる。当初は堀江城を本拠としていたが、後に堀江城を本拠とした堀江系土肥氏と、弓庄城を本拠とした弓庄系土肥氏の二流に分かれたとも言われる。実綱から4代後の政道が弓庄城を築いて移り、以後、政忠、政良(政繁)と3代の居城となった。戦国後期の城主土肥美作守政繁は、堀江城主土肥次良右衛門の弟と言われ、茗荷谷山城を詰城として築いていた。戦国期の越中国内の争乱で勢力を減退させた土肥氏は、越後の上杉謙信が越中に勢力を伸ばしてくると、上杉氏に属して勢力の挽回を図ったが、1578年に謙信が急死すると、越中に進出してきた柴田勝家・佐々成政らの織田勢に従った。しかし1582年6月に織田信長が本能寺で横死すると、再び上杉方に付いて、織田方の佐々成政と敵対した。成政は、郷田砦日中砦などの4つの付城を築いて、同年8~9月と翌83年4月以降の2度に渡り政繁が籠城する弓庄城を攻撃した。政繁はよく防戦に努めたが、上杉景勝の援軍を得られず、上杉方の重要拠点魚津城が落城したため孤立し、同年8~9月に成政と和議を結び、城を明け渡し越後に退去した。これにより、約300年に及んだ土肥氏の新川支配は終焉を迎えた。

 弓庄城は、白岩川東岸の低台地に築かれている。現在は耕地整理で一面の水田に変貌し、明確な遺構はほとんど残っていない。主郭の中心付近に当たる場所に立派な城址碑が建てられているが、主郭の形状も今となっては不明である。ただ、唯一西側に切岸跡の段差が残り、腰曲輪らしい平場も見られる。この段差の上の隅には「館城址」と刻まれた石碑が立っている。この石碑の南には水田に通じる小道が切通し状に通っており、堀跡かとも思ったが、どうも違うらしい。結局、西側の段差と腰曲輪以外に明確な遺構は見られず、残念な状況である。尚、城跡のすぐ東にある「弓の里歴史文化館」は入館無料で、弓庄城の詳しい解説や発掘品が展示されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.673479/137.362436/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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