SSブログ

横尾城(富山県朝日町) [古城めぐり(富山)]

DSCN6699.JPG←堀切から屈曲して落ちる竪堀
(2020年11月訪城)
 横尾城は、木曽義仲に従って越前火打城倶利伽羅合戦に加わった12世紀頃の佐味庄の豪族佐美太郎が創築したと考えられている。南北朝期の1337年、北朝方の越中守護普門(井上)俊清らは越後の南朝軍の侵入を防ぐため、南北1.5kmの尾根の7箇所を堀切で断ち、山を削って六郎山・上百山扇山などの曲輪を段状に設け、城塞の山に変貌させた。戦国前期の1509年、越後守護上杉定実・同守護代長尾為景(上杉謙信の父)は越後反抗の拠点として守りを強固にした。戦国末期には佐々成政が横尾城を改修したとされる。横尾城は宮崎城と密接な関係を持ち、両越国境の守りについていたと推測されている。

 横尾城は、標高248mの馬鬣(りょう)山山頂から東に広がる斜面上に築かれている。西麓の長願寺の近くから登山道が整備されているので、登るのは容易である。現地解説板の縄張図の呼称に従うと、山頂の峰が見晴台、そこから東に下ったところに本曲輪を置いている。本曲輪の下方には本曲輪の下には堀切を穿ち、その下に中曲輪がある。堀切の北端は腰曲輪に繋がり、その下には屈曲しながら竪堀が落ちている。またこの腰曲輪に対して本曲輪の斜面に竪堀を落としている。また前述の堀切の南側はクランクしながら竪堀となって落ち、中曲輪の塁線が張り出して横矢を掛けている。この堀切を降ると鞍部にある武者かくしの曲輪に至る。ここにも浅い空堀が穿たれて中曲輪の南限を区切っている。中曲輪からこの空堀に土橋を架け、両側に土塁を築いた虎口が設けられている。土橋の南には南曲輪がある。中曲輪の南東部にも屈曲した空堀があり、前述の南限の空堀と直交している。中曲輪の南東部の空堀の外が東一の曲輪、その外側に空堀を挟んで東二の曲輪・腰曲輪がある。中曲輪の北東斜面には二の曲輪・北曲輪が広がるとされる。一方、南曲輪の先へ山道に沿って降りていくと、土橋を架けた堀切があり、その先に城域南限となる堀切が穿たれている。この堀切は峠道が通っていたらしい。この堀切の西側方には土塁が築かれ、土塁の内側にも竪堀が落ちている。以上が城の主要部となる。更に山頂の見晴台の西側の峰から北に伸びる尾根にも堀切が数本穿たれている。
 横尾城は、各所に堀が縦横に構築される一方で、いずれの曲輪も削平が甘く、自然地形を残しているものがほとんどである。堀フェチが作った城、と言う印象であり、山頂から東の斜面に構築された占地と言い、非常に特異な城である。自然地形を残した形態からすると、何らかの作戦上、一時的に構築された陣城だったのかもしれない。
北側の竪堀→DSCN6678.JPG
DSCN6710.JPG←中曲輪の虎口と土橋
中曲輪南東の空堀→DSCN6729.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.952035/137.579137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

越中中世城郭図面集 2(東部編(下新川郡・黒部市・

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2012/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
nice!(5)  コメント(0) 

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント