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穴水城(石川県穴水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_7582.JPG←主郭から見たニノ郭
 穴水城は、七尾城主能登畠山氏の重臣長氏の居城である。長氏は、源平争乱期(治承・寿永の乱)に勇名を馳せて鎌倉幕府の御家人に列した長谷部信連を祖とする。信連は、源頼朝から能登国大屋荘を賜り、能登に入部した。その後、長谷部を長に改め、能登の有力国人となった。室町時代前期には将軍家奉公衆となり、能登守護家に対して独立を維持していたが、能登守護が吉見氏から畠山氏に変わると、やがて畠山氏の家臣となった。長氏の惣領家(九郎左衛門家)は鎌倉時代には輪島に本拠を置いていたらしいが、南北朝期に櫛比荘に移り、更に南北朝末期の8代正連の時に穴水城を築いて移ったとされる。以後穴水城は、21代連龍に至るまで長氏惣領家歴代の居城となった。戦国後期の1576年、能登に侵攻して七尾城を囲んだ上杉謙信は、七尾城を孤立させるために能登各地の城を攻略して配下の武将を配置した。穴水城も、城主長綱連が七尾城に詰めて不在であった間に落城させて、家臣の長沢筑前・白小田善兵衛を守将として置いたと言う。しかし小田原北条氏の軍勢が越後に侵攻するとの急報を受けて、謙信は一部の軍勢を残して一旦引き上げた為、七尾城の畠山勢は攻撃に転じ、翌77年5月、綱連は穴水城奪還のためにこれを包囲した。しかし閏7月に謙信が再度能登に侵攻すると、綱連は囲みを解いて七尾城に戻った。綱連は親織田派で、弟の連龍を城外に脱出させて織田軍の救援を求めたが、遊佐続光・温井景隆・三宅長盛らは謙信の調略を受けて内応し、続光の手引きで城内に入った上杉勢は七尾城を攻略し、長氏一族一類百余人を悉く滅ぼした。ただ一人生き残った連龍は、織田信長の支援を得て御家を再興し、上杉方に奪われた穴水城の奪回戦を展開した。そして1578年8月、穴水城を攻略して奪回を果たした。その後も連龍は、一族の仇である上杉勢や温井景隆・三宅長盛ら畠山旧臣勢力と能登各地で戦いを続けて、織田方の尖兵として活躍し、遂に七尾城の温井氏らは信長に七尾城の明け渡しを願い出た。信長はこれを許して徳山則秀を能登へ下向させ、一方の連龍には鹿島半郡の領有を認めた。その後、能登一国は前田利家に与えられ、連龍は信長の命で利家の与力となった。これに伴って穴水城は前田氏の支城となり、1583年まで使用されていたことが古文書から確認される。しかしその後、役目を終えて廃城となった。

 穴水城は、穴水港に面した標高61.8mの丘陵上に築かれている。城の中心部は西に向かってY字に開いた地形にあり、真ん中が主郭、南西に伸びた舌状曲輪がニノ郭、北西に伸びた舌状曲輪が三ノ郭と思われる(現地標柱では、二ノ郭の下段を「伝三の丸」としている)。これらの曲輪には堀切がなく、段差だけで区画されている。またそれぞれ外周に腰曲輪を伴い、Y字分岐部の真ん中にも腰曲輪群が築かれている。ニノ郭下段の南東尾根には段曲輪群がある様だが、薮でよくわからない。主郭の北東には広い平場があり、『能登中世城郭図面集』では城主一族の屋敷地と推測している。この平場の北東は高台となり、曲輪群の平場が確認できるので外郭に相当するのだろう。東の尾根には浅い箱堀状の堀切が穿たれている。この他、主郭の南にも細長く張り出した南郭がある。穴水城は、有力国人・長氏の本城とは言うものの、居館的機能を主としたらしく、厳重な防御構造はあまり見られない。古い形態をそのまま戦国時代末まで引きずった城だった様である。なお、主郭・ニノ郭は公園化され、一部遊歩道もあるが、ほとんどの遺構は未整備の薮に埋もれてしまっている。主郭裏まで車で来れるのが救いである。
東尾根の堀切→IMG_7603.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.230140/136.914389/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


能登中世城郭図面集

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