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西館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN9451.JPG←館跡の平場群
(2020年11月訪城)
 西館は、伊達政宗の長女で、徳川家康の6男松平忠輝に嫁いだ五郎八(いろは)姫の仮御殿である。元々は、慶長年間(1596~1615年)の頃に伊達氏の家臣山岸修理之助定康の屋敷であった。定康は、富沢館主山岸三河守宗成の子であった。その後1621年頃から、伊達政宗の重臣茂庭綱元の屋敷となり、政宗は5回以上、この綱元の屋敷を訪れていることが記録に残っている。最後の訪問は1636年4月19日政宗の死の1ヶ月前のことで、この時の政宗は「御顔色衰へさせられ、御膳も進みたまわず」という状況であったと言われる。綱元屋敷訪問の翌日江戸に向かった政宗は病状が急速に悪化し、翌月24日に品川の江戸屋敷で70歳で病没した。政宗の訃報を聞いた88歳の綱元は、栗原郡文字村に引き籠もり、その地で没した。綱元は、この屋敷を引き払った際、五郎八姫に屋敷を差し上げたと言う。五郎八姫は、夫の忠輝が不行跡により改易となったため、離縁して政宗の元に帰り、仙台城二の丸の西屋敷に移り住み、「西館様」と呼ばれた。綱元が去った後、西館では新たに普請が加えられ、五郎八姫の仮御殿として利用されたらしい。この時五郎八姫は43歳で、以後68歳で仙台城西屋敷で没するまで、仙台城とこの粟生西館の両方で生活した。即ち、西館は五郎八姫の別荘的な性格を持っていた屋敷であったと考えられている。

 西館は、愛子バイパス(国道48号線)の南の段丘上に築かれている。現在、市の史跡に指定されており、館跡の主要部は整備されている。館内には、段差で区画された平場群があり、最上段の小さな平場には、小さい稲荷社が祀られている。南側と西側には土塁が築かれ、その外側には空堀跡が残っている。西の入口は坂土橋になっているが、遺構かどうかは不明。東の平場は一部が畑、大半が耕作放棄地の藪になっているが、段差部分に石積みが残っている。前述の神社の建つ平場の切岸にも、石積みらしい跡が残る。昭和61年に発掘調査が行われ、東半部北側の館入口に当たる部分に石垣が発見されたが、バイパス道建設のため破壊された。西館は、城館というより上流階級層の屋敷地であるが、江戸初期の屋敷の形態を留める遺構として貴重である。
西側の土塁→DSCN9454.JPG
DSCN9489.JPG←石積み遺構

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.264855/140.789688/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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