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柳沢氏屋敷(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8570.JPG←石碑、奥の水田地帯が屋敷跡
 柳沢氏屋敷は、弥太郎屋敷とも呼ばれ、甲斐武田氏の家臣柳沢氏の居館である。柳沢氏は、釜無川流域の地域武士団「武川衆」に属した一族で、甲斐守護で武川衆の祖となった一条時信の6男青木十郎時光を祖とする家系で、時光の6世尾張守安遠の次男弥十郎信興が柳沢村に分封されて柳沢氏を称した。以後、弥太郎貞興・信景・信房・信兼・信久・信俊と歴代の居館となった。1433年、柳沢氏一族の法名立阿が、同じ武川衆の山寺・牧原氏と共に武田信満の子八郎信長に従って、「荒川合戦」で守護代跡部氏と戦い、討死した。戦国時代には武田氏の元で活躍し、1567年の「下之郷起請文」には武川衆有力者7人の一人として柳沢壱岐守信勝が連署している。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。この時柳沢氏は武川衆の一員として徳川家康に服属した。8月29日、徳川方として中山砦を守っていた武川衆が花水坂で北条勢と戦い、北条の間者中沢某を討ち取り、山高宮内・柳沢兵部が首級を得たと言う。1590年に徳川氏が関東に移封となると、兵部丞信俊は徳川氏の旗本として武川の諸士と共に武蔵国鉢形領に移り、1614年に采地で没した。信俊の孫が吉保で、吉保は5代将軍徳川綱吉の側近となり、側用人として絶大な権勢を誇ったことは広く知られている。

 柳沢氏屋敷は、大武川南岸の平地にあったと言う。しかし大武川の度重なる水害によって地形が変わり、その痕跡は残っていない。県道612号線沿いに柳澤氏発祥之地と刻まれた立派な石碑が建っているが、その南西にあったらしい。今は一面の水田地帯となっている。尚、付近には柳沢氏が開基したという柳沢寺跡に残る六地蔵石幢があり、柳沢氏の足跡を残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.786931/138.353995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/03/24
  • メディア: 単行本


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