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笹尾砦(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8589.JPG←二ノ郭北側の円弧状堀切
 笹尾砦は、笹尾城・笹尾塁とも呼ばれ、武田信虎が築いた城砦である。1531年、逸見の有力国人今井氏等が諏訪頼満と結んで信虎に反乱を起こした際に、信虎は諏訪勢の侵攻に備え、諏訪を追われた諏訪下社の大祝金刺昌春に笹尾砦を築かせて守らせた。その後、甲斐の騒乱が収まった後には、武田氏家臣の笹尾石見守や小田切某の居城となったと伝えられている。1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際には、小田原北条氏が笹尾砦を使用したと考えられている。即ち、本能寺の変が起きると、神流川の戦いで織田氏の部将滝川一益を破った北条氏直は、上州から佐久へ侵攻し、川中島での上杉勢との対峙を経て、甲斐・信濃の徳川勢を撃破するため大門峠から諏訪に入り、南下して8月6日に甲斐の若神子城に本陣を置いた。一方、徳川家康は同月10日、新府城に本陣を進めて北条の大軍と対峙した。以後、同年10月下旬に両者で和睦が結ばれるまで、2ヶ月半に渡る長期対陣となった。この間、両者によって多数の城砦が修築、或いは新造されており、笹尾砦は北条氏によって改修されたと推測されている。

 笹尾砦は、釜無川北岸にそびえる七里岩台地から突き出た細い半島状台地の上に築かれている。この地は甲斐信濃国境に近く、甲斐防衛のために重要な地であった。砦跡は現在城山公園となって整備されている。南端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭・五ノ郭・六ノ郭と並んだ連郭式の縄張りとなっている。この内、公園として整備されているのは主郭・二ノ郭である。主郭は東辺以外を土塁で囲んだ細長い曲輪で、二ノ郭との間は主郭土塁と二ノ郭土塁とで挟まれた堀切形状としている。二ノ郭も主郭と繋がる南側以外を土塁で囲んでいる。二ノ郭北辺の塁線は円弧状となっていて、その下に穿たれた堀切も円弧状となっている。二ノ郭の北西には虎口が築かれている。また二ノ郭の東西には帯曲輪があり、西のものは主郭との間の堀切に繋がっている。前述の円弧状堀切の東端部は台地を掘り切っておらず、東に突出した腰曲輪の基部を狭くして土橋を構築している。三ノ郭・四ノ郭は堀切もろとも消滅し、駐車場に変貌しているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、既に耕作地として破壊されてしまっていた様である。駐車場の北には五ノ郭が丘となって残っている。ここは未整備で、内部は自然地形の平坦地となっている。五ノ郭の北には堀切が残り、更に六ノ郭の丘がある。六ノ郭もほとんど自然地形で、北側に堀跡がわずかに残っている。以上が笹尾砦の遺構で、主郭・二ノ郭はきれいに残っているが、それ以外はあまり城跡らしさを残しておらず、期待してたのに少々残念だった。
 尚、主郭の南から東にかけてかつては散策路があったが、現在は老朽化で遊歩道がかなり壊れて立入禁止となっている。最近でも相変わらず山林を全面伐採したり、遊歩道を作ったりと、城跡を公園として整備する事業が各地で行われているが、整備するなら長期的な維持のことを考えてやってほしいものである。
土塁が築かれた主郭→DSCN8612.JPG
DSCN8655.JPG←五ノ郭~六ノ郭間の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.834750/138.319963/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




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