高谷殿(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]
←わずかに残る土塁跡
高谷殿は、この地の豪族高谷隼人の居館と伝えられる。昭和5年に建立された高谷殿の石碑の碑文によれば、遠江の松崎備中守光成の後裔松崎親直は浪人となり、下野国上都賀郡上粕尾の地に移住した。親直は、宇都宮城主宇都宮公綱に仕えて戦功を挙げた。高谷隼人の子孫の娘と結婚し、親直は隼人を氏神として祀り、人々は隼人を高谷殿と称したと言う。但し、地誌類にはこれらの記述は見えないと言う。
高谷殿は、武子川東側の段丘上にある。かつては二重の堀で囲まれていたらしいが、近年の採土で遺構のほとんどが消滅し、わずかに空き地の中に土塁の断片が残っているだけである。この土塁の上に、前述の高谷殿の石碑が立っている。非常に残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.590438/139.764462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
高谷殿は、この地の豪族高谷隼人の居館と伝えられる。昭和5年に建立された高谷殿の石碑の碑文によれば、遠江の松崎備中守光成の後裔松崎親直は浪人となり、下野国上都賀郡上粕尾の地に移住した。親直は、宇都宮城主宇都宮公綱に仕えて戦功を挙げた。高谷隼人の子孫の娘と結婚し、親直は隼人を氏神として祀り、人々は隼人を高谷殿と称したと言う。但し、地誌類にはこれらの記述は見えないと言う。
高谷殿は、武子川東側の段丘上にある。かつては二重の堀で囲まれていたらしいが、近年の採土で遺構のほとんどが消滅し、わずかに空き地の中に土塁の断片が残っているだけである。この土塁の上に、前述の高谷殿の石碑が立っている。非常に残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.590438/139.764462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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