大木須城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]
←主郭の湯殿神社
大木須城は、木須大膳館とも言い、下野の名族那須氏の庶流木須氏の居城である。那須資実の次男頼実が、明応年間(1492~1501年)頃に大木須・小木須・横枕の地を与えられ、木須民部大輔を名乗り、大木須城を築いて居城としたと言う。頼実の子康実は1551年に主君那須高資と共に千本城に赴いて主君とともに謀殺された。康実には与九郎・与八郎という子があったが、二人は母方の羽田氏に引き取られて藤形輪館に移ったため、大木須城は廃城となったと伝えられる。
大木須城は、比高70m程の山上に築かれている。明確な登山道が見当たらないので、西麓から斜面を直登した。ほぼ単郭の小規模な城砦で、山頂部に主郭を置き、その周囲に1~2段の腰曲輪を廻らしただけの簡単な構造である。東側の腰曲輪には竪堀が穿たれている。主郭の中央には土壇があり、湯殿神社の小祠が祀られている。主郭の北側は緩斜面となっていて、その先に二重堀切があるが、痕跡はわずかでほとんどわからない。更に少し降ったところに城域の北限を区切る堀切が穿たれている。以上が大木須城の遺構で、有事の際の詰城であったと思われる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632224/140.220662/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
大木須城は、木須大膳館とも言い、下野の名族那須氏の庶流木須氏の居城である。那須資実の次男頼実が、明応年間(1492~1501年)頃に大木須・小木須・横枕の地を与えられ、木須民部大輔を名乗り、大木須城を築いて居城としたと言う。頼実の子康実は1551年に主君那須高資と共に千本城に赴いて主君とともに謀殺された。康実には与九郎・与八郎という子があったが、二人は母方の羽田氏に引き取られて藤形輪館に移ったため、大木須城は廃城となったと伝えられる。
大木須城は、比高70m程の山上に築かれている。明確な登山道が見当たらないので、西麓から斜面を直登した。ほぼ単郭の小規模な城砦で、山頂部に主郭を置き、その周囲に1~2段の腰曲輪を廻らしただけの簡単な構造である。東側の腰曲輪には竪堀が穿たれている。主郭の中央には土壇があり、湯殿神社の小祠が祀られている。主郭の北側は緩斜面となっていて、その先に二重堀切があるが、痕跡はわずかでほとんどわからない。更に少し降ったところに城域の北限を区切る堀切が穿たれている。以上が大木須城の遺構で、有事の際の詰城であったと思われる。
北端の堀切→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632224/140.220662/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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