SSブログ

坂本城(滋賀県大津市) [古城めぐり(滋賀)]

DSCN4409.JPG←二ノ丸に立つ石碑
 坂本城は、明智光秀が築いた近江統治の拠点である。1571年9月、比叡山を焼き討ちして全山灰燼にした織田信長は、宇佐山城の守将明智光秀に滋賀郡(湖西南部)の支配を命じ、坂本城を築かせた。比叡山延暦寺・湖西地域諸豪の監視と琵琶湖の制海権の掌握、更には佐和山城と共に信長の領国美濃と京都を結ぶ交通路の確保を目的としていた。同時代資料によれば坂本城は、信長の安土城に先立ち、壮麗な天守を築いた城であったと伝えられている。その後、坂本城を本拠とした光秀は信長の意を受け、滋賀郡を中心として近江平定を推し進めた。1575年に丹波攻略を信長から命じられ、石山合戦や荒木村重討伐などに転戦しながら、足掛け5年をかけて丹波攻略を成し遂げた。この結果、丹波一国も拝領し、坂本城とともに丹波亀山城の城主を兼帯したと見られる。1582年6月2日、光秀は本能寺の変を起こして織田信長・信忠父子を滅ぼしたが、中国大返しで急速に進軍してきた羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れた。光秀は夜半、僅かな手勢と共に坂本城へ向かう途中、山城国小栗栖で物盗りの百姓らに襲われてあえない最後を遂げた。一方、安土城の守将明智秀満は、光秀軍敗北の報に接して、辛くも坂本城に戻った。秀満は天守に立て籠もり、秀吉方の攻囲の中、自分の妻と光秀の妻子を刺し殺し、天守に火を放って自刃した。その後、秀吉に命じられて坂本城の守将となった丹羽長秀が城を再建した。その後、賤ヶ岳合戦の際には坂本城は軍事拠点となった。後に杉原家次、次いで浅野長政が城主となったが、1586年、秀吉の命により長政は大津城を築城したが、その際に坂本城の資材は大津城に移築され、坂本城は廃城になった。

 坂本城は、琵琶湖畔に築かれた水城であったが、前述の通り城の資材が大津城に移されたため、遺構はほとんどなく、城の位置・構造なども不明であった。しかし発掘調査の結果などから、湖畔に本丸を置き、その西側に二ノ丸・三ノ丸を配置した縄張りであったと推測されている。現在、本丸跡地には企業の建物が立ち、その入口脇に坂本城本丸跡の石碑が立っている。またこの奥の琵琶湖畔には石垣跡が水中に没して残っている。2021年11月に少雨による琵琶湖の水位低下で久しぶりに石垣が露出したとの報道があった。しかし訪城した年末には降雪などにより既に水位が上がっていて、石垣を見ることはできなかった。この他、二ノ丸の一角とされる住宅の道路脇に、城址碑が立っている。いずれにしても遺構はなく、幻の城である。
 尚、明智光秀の石像が立っている坂本城址公園は、城外にあるので城の遺構とは関係がない。
湖中に没した石垣→DSCN4389.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.059975/135.879185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


明智光秀の城郭と合戦 (図説 日本の城郭シリーズ13)

明智光秀の城郭と合戦 (図説 日本の城郭シリーズ13)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/07/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント