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蟻塚城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN5977.JPG←物見台状の最後部の曲輪
 蟻塚城は、諏訪氏の一族と推測される豪族笠原氏の居城である。『吾妻鏡』には、平氏に仕えていた笠原平五頼尚が、1180年9月7日に大田切城主菅冠者友則と共に木曽義仲配下の村山義直・栗田範覺(のりさと)の軍勢と信濃国市原で戦って敗れ、越後に逃れたとある。但し、この笠原頼尚については高井郡笠原(現在の中野市)の人で合戦もそちらであったとの説もあり、蟻塚城主笠原氏との関係は不明。建武年間(1334~38年)には笠原平五の7世の孫・中務少輔正直が天神山城に居城していたが、義仲6世の孫・木曽又太郎家村に攻撃され、戦わずして蟻塚城に退いたと伝えられる。1400年の大塔合戦では笠原中務丞の名が見え、『神長守矢満実書留』の1467年正月の条には笠原美濃守貞政の名がある。その後の歴史は不明である。尚、背後の山上には笠原氏が詰城として築いた守屋山城がある。

 蟻塚城は、標高840mの丘陵地に築かれている。城内には御射山社が建てられ、綺麗に整備されているので遺構がわかりやすい。斜面の傾斜に沿って、曲輪群を階段状に連ねている。主郭は最も広い曲輪で前面以外の三方に土塁を築き、特に後部の土塁は規模が大きく、背後を水路を兼ねた堀切で分断している。この堀切は記者斜面で北西に伸びて降っている。主郭の南には腰曲輪が築かれ、前面にも小郭が置かれている。その西には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭には御射山社が建ち、南北に土塁を築いている。二ノ郭の南には腰曲輪、北側には背後の堀切から分岐した横堀が北西に降っている。二ノ郭の前面には3郭があり、その前にも浅い堀切が穿たれている。3郭南にも横堀があり、この堀切とT字にクロスしている。更に西にはひな壇状に3つの曲輪群が並んでいる。最上段の曲輪には前述の堀切に沿って土塁が築かれている。この他、主郭の後部にはコの字型に土塁を築いた物見台状の小郭があり、その背後も堀切で区画している。蟻塚城は、平時の居住性と統治機能を持った館城の性格をよく残している。
ひな壇状曲輪の堀切と土塁→DSCN5919.JPG
DSCN5960.JPG←主郭後部の大土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.847587/138.036025/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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