渋江氏館(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]
←浄安寺の山門
渋江氏は、武蔵七党の一、野与党の一流で、大蔵経長の子経遠が渋江郷に入部して渋江氏を称したのに始まる。『吾妻鏡』には、渋江五郎光衡や渋江太郎兵衛尉の名が見える。また南北朝期の1383年には渋江加賀入道が花積郷御厩瀬渡を押領し、鎌倉公方足利氏満が禁止命令を出している。室町時代には、扇谷上杉氏の家宰太田道真(道灌の父)が岩槻城を築いた後は太田氏に従属していたが、1525年2月の北条氏綱の岩槻城攻撃の際、渋江氏が内応して岩槻城は落城し、城主太田資頼は石戸城へ逃れた。その後、渋江三郎が岩槻城代となった。しかし資頼は、1530年9月に渋江氏を破って岩槻城を奪還したと言う。
渋江氏館は、岩槻城の大手門外の渋江町にあったらしい。正確な場所は不明だが、浄安寺付近にあったと思われる。場所も不明なので明確な遺構は望むべくもないが、浄安寺には徳川家康の家臣で関東移封後に岩槻城主となった高力清長や、家康の6男松平忠輝の側室竹の局とその子徳松丸の墓がある。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.954031/139.701269/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
渋江氏は、武蔵七党の一、野与党の一流で、大蔵経長の子経遠が渋江郷に入部して渋江氏を称したのに始まる。『吾妻鏡』には、渋江五郎光衡や渋江太郎兵衛尉の名が見える。また南北朝期の1383年には渋江加賀入道が花積郷御厩瀬渡を押領し、鎌倉公方足利氏満が禁止命令を出している。室町時代には、扇谷上杉氏の家宰太田道真(道灌の父)が岩槻城を築いた後は太田氏に従属していたが、1525年2月の北条氏綱の岩槻城攻撃の際、渋江氏が内応して岩槻城は落城し、城主太田資頼は石戸城へ逃れた。その後、渋江三郎が岩槻城代となった。しかし資頼は、1530年9月に渋江氏を破って岩槻城を奪還したと言う。
渋江氏館は、岩槻城の大手門外の渋江町にあったらしい。正確な場所は不明だが、浄安寺付近にあったと思われる。場所も不明なので明確な遺構は望むべくもないが、浄安寺には徳川家康の家臣で関東移封後に岩槻城主となった高力清長や、家康の6男松平忠輝の側室竹の局とその子徳松丸の墓がある。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.954031/139.701269/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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