SSブログ

乙事陣場(長野県富士見町) [その他の史跡巡り]

DSCN3612.JPG←現在の乙事原
 乙事陣場は、1582年の天正壬午の乱の際、徳川方の七手衆が迫りくる北条勢に対して布陣した陣場である。武田征伐で短時日で武田氏を滅ぼし、その領国を併呑して得意の絶頂にあった織田信長であったが、そのわずか3ヶ月後の6月2日早暁、信長が本能寺で横死すると、甲斐・信濃を支配していた織田氏の勢力は瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発した。北条氏直は、神流川の戦いで滝川一益を破った後、服属した上野国衆を加えた大軍を率いて碓氷峠を越え、信濃に侵攻した。そして川中島での上杉景勝との対陣を経た後、7月29日、甲斐制圧に矛先を変えて南下を始めた。一方、信長の招待で堺遊覧中だった徳川家康は、本能寺の変の報を受けて決死の伊賀越えを敢行して、6月4日、命からがら岡崎城に戻った。その後、家臣や庇護していた武田旧臣達を甲信攻略のため先発させた。6月27日には重臣の酒井忠次に命じて、3000人余の軍勢を率いて奥三河から伊那口を通って信濃に侵攻させた。忠次は、伊那衆を服属させつつ北上し、諏訪を目指した。家康自身は、駿河から中道往還を経て甲斐に入り、7月9日に甲府に着陣した。この頃、諏訪郡に到達した忠次は、信長滅亡後に旧領を回復して高島城(茶臼山城)で自立した諏訪頼忠を服属させるため、開城交渉を開始した。しかし頼忠は、忠次の高圧的な態度に反発して返って北条方への服属を決めてしまい、徳川方との交渉は遅々として進まなかった。家康は、頼忠を味方につけるため軍事的圧力を強めるべく、甲斐から大久保忠世・大須賀康高ら七手衆を諏訪に派遣した。忠世らは7月18日に諏訪に着陣し、乙事村名主の五味太郎左衛門を使者に立てて数度の交渉を行ったが、頼忠の北条氏服属の意志は決しており、7月22日に徳川七手衆と諏訪氏との交渉は決裂し、徳川軍は高島城への攻撃を開始した。しかしそんな最中の7月29日、北条軍4万3千の大軍が諏訪を目指して南下を始めたとの知らせを受けた七手衆は、29日夜、撤退を開始した。3千の兵を率いて乙事まで退いて布陣したが、北条の大軍は一里近くまで迫り、両軍は乙事原で衝突しようとする寸前にあった。この時、太郎左衛門はつぶさに北条軍の動静を探り適切な助言をしたので、徳川軍は上の棒道を進んでくる北条軍の先鋒隊を牽制しつつ、中の棒道を通って一兵も損なうことなく新府に退くことができた。これを乙事の退陣と言い、徳川軍が布陣した乙事原の地を陣場と呼ぶようになった。この後の乱の経緯は、御坂城の項に記載がある。天正壬午の乱終結後、太郎左衛門はその功績により十貫文の知行を拝領し、更に後になって家康に召し出され、姓を乙骨と改め、その旗本に取り立てられた。

 乙事陣場は、矢の沢川と母沢川に挟まれた丘陵地帯にあったらしい。現在はなだらかに傾斜した丘陵地であるが、現地解説板によれば以前はなだらかな尾根となっていたらしい。しかし戦後の土地改良区整理事業で切り取られ、改変されてしまっている。市道の脇に解説板が立ち、そこから北北西90m程の高台に「史跡 陣場」と刻まれた石碑が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.907240/138.266523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント