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武鎗城 その2(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN6975.JPG←万日堂跡周囲の腰曲輪
 武鎗城には2018年12月に訪城しているが、この度、地元の郷土史家である三浦様から招待をいただき、一緒に城跡を巡り歩く機会に恵まれた。またその際に、武鑓氏や武鎗城に関する文献のコピーや、三浦さんがまとめられた武鎗村に関する応仁年間(1467~69年)以降の年表など、貴重な資料をいただくことができた。この場を借りて、改めて御礼申し上げます。

 まず武鎗城の歴史についての補足。最後の城主であった武鎗典膳重信は、元々奈良坂郷高森城(奈良坂城)主奈良坂貞信の3男で、初名は奈良坂又三郎といった。1552年に武鑓因幡重利に入嗣して武鎗城に入り、武鎗城主となった。その後の事績は既述の通り。

 次に城跡について。武鎗城主郭の東に丘があり、万日堂跡とされる。現地標柱の解説文によれば、1187年頃に奥州藤原氏3代秀衡の家臣照井太郎高直が、自身が築いた武鎗城の繁栄と領地内の安全を願って建てたものと伝わっているらしい。しかし照井太郎の伝説には虚実が入り交じっており、俄には信じ難い。一方、紫桃正隆著『仙台領内古城・館』では、この丘は武鎗城の「馬場」とされている。現状を見ると頂部の小さな丘の周りに腰曲輪状の平場があり、物見台だったのではないかという三浦さんの推測の方が正しいように思う。この後、主郭や北西の尾根を巡った後、西館に向かった。西館の中心と思われる一番西の峰は、最近薮払いされたとのことで、周囲に腰曲輪がある他、峰の北東に塚のような土壇がある。三浦さんは西館の遺構の一部ではないかと推測していたが、土壇の上に昭和初頭の馬頭観世音の碑があり、どちらかというと近世以降に築かれた信仰に関わる遺構ではないかと感じられた。一方で峰の南斜面には数段の平場があり、そこを登ってくる小道はS字状に曲がっていて、平場の塁線から横矢が掛かるようになっていて、これは城の遺構と推測された。
 尚、城の南にある町家は、往時の城下集落の名残かと思っていたが、三浦さんの話では城下集落はなく、近代に新しくできた町家とのことであった。そうなると武鎗城が恒常的に維持された城だったのか、疑問も生じてくる。この地域は戦国時代には葛西・大崎両勢力の接壌地帯であり、武鎗城をはじめとする城郭群がどのように維持管理されていたのか、いろいろと考えさせられた。

 いずれにしても、季節的に雁やハクチョウの群れが多数見られ、住宅地に近いというのにカモシカが現れたりと、初冬の楽しい城歩きとなった。


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