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高森城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5353.JPG←鞍部から落ちる二重竪堀
 高森城は、奈良坂城とも言い、葛西氏の家臣奈良坂氏の居城である。奈良坂氏には平姓と藤原姓の2流があったとされる。平姓奈良坂氏は、葛西小八郎延平を祖とし、建武年間(1334~38年)に奈良坂郷に住して奈良坂氏を称したと伝えられる。即ち葛西氏一族である。一方、藤姓奈良坂氏は、登米郡弥勒寺城主佐藤信行の次子信貞が流郷中村城より奈良坂家重の養子となったことに始まると言われる(但し弥勒寺城にはその様な伝承はない)。信貞は、奈良坂小山城をしばらく居城としたが、1466年に高森城に移り、家重は清水城に転じたと言う。この頃、平姓奈良坂氏当主は5代重光で、重光は継嗣がなく、黒沢氏から重朝を養子とした。8代重弘は、1564年に馬籠重胤が主家葛西氏に逆らって討伐を受けた馬籠合戦の際に討死した。次の重時の代に豊臣秀吉の奥州仕置を迎え、平姓奈良坂氏は没落したと言う。また藤姓奈良坂氏も奥州仕置で没落したと言われ、両系が戦国末期まで存続していたようで、どちらが高森城主だったのか、正確なところは不明である。いずれにしても、高森城は大崎領に接する葛西領の最前線にあり、境目の城として機能していたと推測されている。

 高森城は、養寿寺背後の丘陵上に築かれている。南に張り出した小丘に主郭を置き、鞍部を挟んで北の斜面に二ノ郭を配置している。養寿寺の墓地裏を登れば、もうそこは主郭群である。主郭は、西側先端にL字型の土塁を築き、その脇に虎口を開いている。虎口を出た西側には西1郭がある。西1郭は北辺に土塁を築いている。西1郭の先には切岸の下に西2郭がある。主郭・西1郭・西2郭の南斜面には腰曲輪群が数段築かれており、養寿寺墓地も腰曲輪であった可能性があるが、全てが遺構かどうかは定かでなく、一部は畑跡かもしれない。主郭群の北の鞍部は堀切となり、その北の二ノ郭は外周三方(西・北・東)をコの字型に横堀で囲んでいる。この二ノ郭周囲の横堀の西辺部は、南端で直角に折れて竪堀となって西へ降っている。この竪堀は前述の暗部の堀切から落ちる竪堀と並走しており、二重竪堀となって降っている。二ノ郭は、斜面上に築かれているため、郭内は大きく傾斜しており、建物などはなかったのではないかと考えられる。二ノ郭の上端には土塁的な段があり、その背後を前述の通り横堀が防御している。また、二ノ郭の真ん中下方が窪んでおり、城門など何らかの構造があったようである。この他、コの字横堀の北西の折れ部では、外側土塁の西斜面に竪堀が落ちている。以上が高森城の遺構で、境目を防衛する城にしては規模・構造ともに大したものではなく、防御が固い城であったとも思えない。どちらかといえば、物見や狼煙台的な運用をされた城だったようにも思える。
二ノ郭北西の横堀角部→DSCN5396.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.844262/141.133697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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