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伊豆木城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1142.JPG←3郭の土壇
 伊豆木城は、小笠原氏の家臣伊豆木氏の城と考えられている。伊豆木氏は、南北朝期頃から伊豆木に在住し、小笠原氏に属して伊賀良庄南部を領した。1400年の大塔合戦では、信濃守護小笠原長秀に属した下伊那の武士の中に伊豆木美作守の名が見える。また応仁の乱の際に将軍足利義政から感状を受けた松尾城主小笠原家長らに関連して伊豆木尾張守の名がある。伊豆木氏の事績については不明点が多いが、1582年の織田信長の武田征伐により没落したと伝えられ、この時期に廃城になったと考えられる。後の1600年、小笠原信嶺の弟長巨は、徳川家康から伊豆木に1千石を賜り、伊豆木城の南東麓の居館跡に陣屋を造営して居所とした。

 伊豆木城は、国重要文化財に指定されている旧小笠原家書院が建つ伊豆木陣屋背後の比高70m程の丘陵上に築かれている。陣屋跡に建つ小笠原資料館の裏から登道があるが、立入禁止になっており、仕方なく西の竹藪を突っ切って登城した。大きな谷地形で隔てられた3つの曲輪群と、東の出曲輪で構成されている。曲輪群を隔てる2つの谷地形は堀切とされているが、いずれもほとんど自然地形であり、鋭い薬研堀として普請した感じではない。その一方で、3つの曲輪群を構成する平場群は明瞭である。『日本城郭大系』『信濃の山城と館』に倣って呼称すると、西の曲輪群が1郭、中央の曲輪群が2郭、東の曲輪群が3郭となるが、これは便宜的に数字付けしたものであって、実際にどの曲輪群が主郭に相当していたのかは、現状ではわかりにくい。付随する曲輪群が一番多いのは1郭で、頂部の縦長の曲輪の南東に段曲輪群が築かれ、また南西に舌状曲輪を伴っている。この舌状曲輪の先端の段曲輪には小祠が祀られている。中央の2郭は付随する曲輪群が最も少ないが、北西の谷地形の先に出丸的な曲輪が築かれている。ここには鉄塔が立っているので、改変を受けている。周囲には腰曲輪があるらしいが、高木がないので薮で覆われていて、地形がよくわからない。3郭は1郭に次いで付随する曲輪群が多く、頂部の平場の南端近くには物見台らしい土壇がある。また北に堀切と小郭、南に腰曲輪群と竪堀地形が見られる。東の腰曲輪の先には鞍部を挟んで東の出曲輪がある。この鞍部も堀切とされているが、ほとんど自然地形である。また出曲輪は普請がかなり不明瞭で、どこまでが曲輪なのかはっきりしない。以上のような遺構の状況で、かなり消化不良になる城である。
1郭~2郭間の谷地形→DSCN1199.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.447115/137.792995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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