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池田城(富山県立山町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7880.JPG←5郭から見た竪堀と4郭
 池田城は、1569~70年に越中有数の国人であった寺島職定の居城であったと伝えられる。寺島氏は、越中の射水・婦負郡守護代神保氏の重臣であった。この時期、上杉謙信が越中に侵攻して松倉城の椎名氏を攻撃しており、寺島氏は反上杉方として芦峅寺衆徒らの力を借りて城の守りを固めている。寺島氏は、1577年には上杉氏に属した。1583年、佐々成政が弓庄城を攻撃した際には、池田城も戦場となったと言う。成政入国後は佐々氏に仕え、佐々氏が肥後へ移ると前田氏に仕えたとされる。また別説では金森中務が城主であったとも言われるが、判然としない。

 池田城は、池田集落の南にある標高375mの城山に築かれている。北麓の林道脇に解説板があり、ここから登道が整備されている。登道は、釜池の東の尾根に至り、尾根沿いに登っていく。城域までは結構距離があり、山間にある山奥の城である。10分ほど登ると「櫓」と標柱がある高台に至る。高台上には「のろし台跡」と手書きの標柱があり、その後部には長い一騎駆けの土橋がある。これらの遺構は、現地解説板にある佐伯氏の縄張図には描かれていない。その先は堀底状通路があり、土橋が架かった幅広の堀切が穿たれ、その上に前衛の物見台が築かれている。その先も再び堀底状通路があり、その先に堀切が穿たれ、その上に主城部がある。堀切の上は大きな段差の切岸になっていて、アルミ梯子が設置されている。その上に5段の曲輪群が連郭式に築かれている。現地標柱では、下から順に5郭・4郭・3郭・2郭とあり、最上段が主郭で最も広い。5・4・3・2郭の間は比較的大きな段差で区画されているが、2郭と主郭の間の段差は小さく、2郭は主郭に付随する性格が強い曲輪であった様である。これらの内、5郭・4郭の側方にL字に湾曲した竪堀が穿たれている。主郭は中央に土壇があり、その南東部は低くなって腰曲輪状を呈している。主郭は縦長だが南西側に大きく張り出した形状で、南西尾根に腰曲輪2段を築き、その先に幅広の堀切を穿ち、更に尾根の先にもう1本土橋が架かった堀切を穿って背後を遮断している。また主郭の東側には腰曲輪が築かれ、3郭との間に大竪堀を穿って導線を遮断している。往時はここに木橋を架けて曲輪間を連絡していたのだろう。この他、5郭手前の堀切から西側に進むと千畳敷と呼ばれる区画に出る。最上段は普通の腰曲輪であるが、下方に大きな平場がある。しかし薮だらけなので、踏査はしていない。千畳敷最上段の腰曲輪の先には大竪堀が穿たれ、その先に物見台の土壇と堀切状の通路があり、その先にも腰曲輪が続いている。以上が池田城の遺構で、幅広の堀切・竪堀を使って各部を防御した城である。
5郭切岸と堀切→DSCN7858.JPG
DSCN7933.JPG←南西尾根の幅広の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.609163/137.360280/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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