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摺沢城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0513.JPG←外周の大空堀
 摺沢城(数流沢城)は、八丁館とも言い、葛西氏の家臣岩淵氏(摺沢氏)の居城である。1221年、葛西清親に仕えた岩淵重政が、磐井郷摺沢郷を賜り、摺沢城を築いて居城としたと伝えられる。しかしそれ以前にも千葉氏の一族が摺沢城に居たとも、また古くは前九年の役の際に安倍貞任軍がこの地に拠り、源頼義軍を撃破したとも言われるが定かではない。1498年から翌年にかけての葛西領内の擾乱では摺沢摂津守が参画している。またこの時薄衣城主薄衣美濃入道清胤が伊達成宗に出した『薄衣状』には、「数流沢城は大原飛騨守が籠って警固している」と書かれている。天文年間(1532~55年)頃には摺沢筑前守信定の娘が安俵城主安俵玄蕃忠秀の室となっている。1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となると、摺沢氏は伊達氏に仕えたと言う。尚、同年10月に生起した葛西大崎一揆で桃生郡中津山香取(神取山城)に出陣した軍勢の中に摺沢将監の名が、また佐沼城の籠城衆の中に摺沢出雲の名があり、城主か一族であると考えられている。

 摺沢城は、曽慶川南岸の丘陵先端部に築かれている。北西麓に城への入口があり、車道の曲がり角に「八丁館大手門」の標柱があるが、現在は朽ちて倒れている。その奥に城址標柱があり、そこから奥に小道が登っている。南に向かって折れた「く」の字型の尾根に城が築かれている。頂部に長方形の主郭を置き、北西に伸びる尾根に二ノ郭と段曲輪2段を築いている。また主郭後部にも1段低く腰曲輪が築かれている。これらの曲輪群は段差だけで区画されている。また二ノ郭の南北と主郭の南にも帯曲輪が築かれている。この城で出色なのは、背後尾根から主郭北側にかけて穿たれた大空堀で、現地標柱では「馬隠し」と呼ばれている。この大空堀は、二ノ郭の北麓まで伸びている。大空堀の外周に築かれた土塁は、実際は土塁ではなく段付きの帯曲輪となっている。大空堀の裏にも大竪堀が北斜面に落ちている。この他、背後の東尾根にはT字型土塁と平場があるが、用途は謎である。古い航空写真を見ると耕地であった様なので、遺構ではなく耕地の名残かもしれない。以上が摺沢城の遺構で、単純な構造の城であるが、大空堀だけが異彩を放っている。
 尚、主郭に行ったら草むらの中にタヌキが転がっていた。死んでるのかと思って手を叩いてみたら、寝てただけらしく、眠そうな顔をしてモソモソと薮に入っていった。のどかなものである。
竪堀→DSCN0523.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.993280/141.331859/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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