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小倉城(福岡県北九州市) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3345.JPG←北の丸の水堀・石垣
 小倉城は、江戸時代に細川氏、次いで小笠原氏の居城となった近世城郭である。しかしこの地は関門海峡を押さえる交通の要衝であり、古くから記録に現れる要地であった。奈良時代の740年には大宰少弐藤原広嗣の反乱に際して、この付近に軍団が置かれていた。鎌倉中期の文永年間(1264~74年)頃には、緒方大膳惟重が居城したとされるが、それが現在の小倉城の地であったかどうかは定かではない。現在の小倉城の直接の前身は戦国後期の1569年に、大友氏と毛利氏の抗争の中で毛利氏によって築かれ、高橋鑑種が城主となった。1586年、島津氏の侵攻を受けていた大友宗麟は、豊臣秀吉に支援を求め、これを契機として秀吉の九州征伐が始まった。この時、小倉城主高橋元種(鑑種の養子)は秀吉に降り、秀吉は大軍を率いて小倉城に入城した。九州平定後、小倉城には毛利勝信が置かれた。1600年の関ヶ原の役の際、勝信は西軍に属したため黒田官兵衛孝高によって小倉城を占領され、関ヶ原合戦後に改易されて土佐配流となった。同年の毛利氏改易後、細川忠興は豊後国39万9千石を与えられ、当初は中津城を居城とした。小倉城には弟興元を置いたが、1601年12月に忠興と不和となって出奔した。忠興は小倉城に居城を移し、1602年から7年かけて小倉城を改修して現在の規模とした。1632年に肥後熊本城主加藤忠広が改易となると、2代藩主忠利は熊本54万石に移封となり、譜代大名で明石城主小笠原忠真が15万石で入城した。以後、幕末まで小倉藩小笠原家歴代の居城となった。幕末の1866年、第二次長州征伐の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に敗退し、小倉城を焼いて撤退した。これにより、小倉城は昔日の姿を失った。

 小倉城は、平地の高台を利用した近世城郭で、北九州市の中心街となっている。本丸を中心に、南に松の丸、北に北の丸を配し、それらの外周に二の丸、三の丸、外郭が築かれていた。城の中心部は概ね逆三角形をしており、周囲を石垣・水堀で囲んでいたが、水堀は北半分しか残っておらず、南や東は埋められてしまっている。近世城郭らしく、枡形城門や横矢掛りを多用した縄張りであるが、地形の高低差が小さい上、南側は水堀が失われてしまっているため、縄張りに緊張感が感じられない。模擬天守・着見櫓が再建されて威容を誇っているが、天守は元のものにはなかった破風が設けられているなど、史実を無視した昭和再建の代物で歴史的価値はない。なんでこれが続100名城に選ばれるのか、選定基準がよくわからない。幕末に焼亡していなければ城門の一つや二つが残されていたかと思うと、それも無く石垣だけが残り、侘しい限りである。また外郭も西側の三の丸土塁が断片的に残っているだけで、遺構の湮滅が進んでいる。そんな中、北の丸にある八坂神社だけは櫓風に建物が建てられており、城の雰囲気を感じさせる。
多聞口門の枡形虎口→DSCN3430.JPG
DSCN3365.JPG←三ノ丸土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.884302/130.873754/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:近世平城
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