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長里楯(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4642.JPG←帯曲輪と繋がる二ノ郭の二重堀切
 長里楯は、歴史不詳の城である。沓沢玄蕃が楯主との伝承があるらしい。沓沢玄蕃と言えば、一時期、差首鍋楯の楯主でもあったとされている。長里楯とは直線距離で北方に1.6km、山一つ隔てただけの位置にあるので、差首鍋楯の出城であることが推測され、また主君の沓沢忠家の後見として家老の沓沢玄蕃がこの城に詰めていたとも考えられる。

 長里楯は、標高180m、比高80m程の山上に築かれている。地元のご老人に登り口を訪ねたところ、中腹までなら東麓の柿の木の脇のコンクリートの小道から登っていけるとのことであった。教えてもらった通りに山林に入っていくと、小さな神社の建つ広い平場が広がっている。どうも山麓の居館があった様である。この平場の北東隅は高台となり、そこから東に細尾根が伸びていて、物見であったらしい。また北西に行くと何段かの平場が見られ、北側に降る城道らしい跡もある。これらの東麓の平場群の背後に、主城部から北東に伸びる細尾根がそびえている。斜面を直登してこの尾根に取り付き、登っていけば主城域に至る。最初に見えてくるのは小さな物見台で、背後に小堀切を穿っている。その後ろには2段の段曲輪があり、その上に主郭がある。東西方向に東から主郭・二ノ郭・三ノ郭を並べた連郭式の縄張りであるが、斜度の緩い南側にいくつもの腰曲輪を築いている。主郭と二ノ郭は、それぞれ後部を二重堀切で分断しており、特に二ノ郭背後のものはしっかりした規模である。主郭から二ノ郭にかけての南側には一段低く、扇形の腰曲輪がある。この腰曲輪は、三ノ郭南の腰曲輪と二重堀切を挟んで対向しており、腰曲輪同士を繋ぐ木橋が架かっていた可能性がある。三ノ郭の背後も小堀切で区画されている。一方、前述の扇形腰曲輪の下方には、更に2段の帯曲輪が築かれ、下段の帯曲輪は土塁を築いて木戸口を防衛し、曲輪の内側は窪んで横堀状となっている。その東側には上段の帯曲輪から小堀切で区画された物見台があり、帯曲輪との間を竪堀状の城道が降っている。見た感じでは、この主郭の南東に伸びる尾根が大手道であったように思われる。また上段の帯曲輪の西側は二ノ郭背後の二重堀切に繋がっていて、堀底道となっていることが明らかである。
 主城部は普請がしっかりしており、特に南斜面の曲輪群は比較的技巧的に構築されており、薮も少ないので見応えがある。しかし主郭や二ノ郭は低い草木が多くて遺構がわかりにくいのが難である。
 尚、『山形県中世城館跡調査報告書』の縄張図では、標高212mの峰から南東に伸びる尾根に城があるように描かれているが、実際の位置は東の尾根が正しい。
主郭の二重堀切→IMG_4716.JPG
IMG_4623.JPG←下段帯曲輪の土塁
南東尾根の小堀切と物見台→IMG_4616.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.918752/140.196115/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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タグ:中世山城
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