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戸根林楯(山形県長井市) [古城めぐり(山形)]

IMG_5309.JPG←主郭東に突出した櫓台
 戸根林楯は、歴史不詳の城である。草岡地区北西の標高334mの丘陵上に築かれている。この城に行くには、北西に伸びる尾根の先に車道が通っており、そこから国土地理院1/25000地形図にある点線の林道を100m程南に向かって歩き、林道が北東向きに曲がった辺りから南東の尾根方向に山林を歩いていけば、目の前に堀切が現れてくる。このルートであれば山登りする必要がないので、場所さえわかっていれば訪城はたやすい。ただ城内には草木が多く、しかも雪国特有の高反発の折れない灌木が立ち塞がっているので、踏査はなかなか大変である。

 戸根林楯は大型の単郭の城で、主郭の周囲には延々と横堀もしくは帯曲輪が廻らされている。横堀は、北東の基部の尾根では二重堀切となり、内堀の西端は折れて横堀となって主郭の西側に回り込んでいる。この横堀は短く途切れてしまうが、南端部に3本ほどの短い竪堀群が築かれている。これはちょっと意図が不明で、竪堀と言うよりも倉跡の様にも思われる。一方、北東の支尾根にも堀切が穿たれ、堀切前面には独立小郭がある。この堀切も主郭東側の横堀に繋がっている。東側の横堀は、一部で帯曲輪に姿を変えながら、延々と伸びている。主郭東側の塁線はかなり複雑に屈曲しており、下方の横堀・帯曲輪に対して多くの横矢が掛けられている。特に主郭東側に突出した櫓台があり、見事な横矢掛りとなっている。この城の大手は南東尾根にあったと思われ、この方面には複雑な虎口構造が見られる。主郭外周の横堀から降る竪堀状の城道はクランクしながら外に通じている。またこの付近だけもう一つ外側に横堀が穿たれ、この城道の横に繋がっている。横堀周囲の土塁はL字状となって上の土塁に接続し、更にこの上の土塁もL字状に折れて主郭に繋がっている。草木が多くてわかりにくいが、複雑な多重枡形を形成していた様である。また主郭の中央西側には堀切と独立堡塁があり、その上に内枡形虎口が形成されている。主郭内は、横堀・帯曲輪沿いに一段低く腰曲輪が取り巻いている。主郭の土塁は、北西部にのみ構築されている。この他、横堀の数ヶ所に竪堀状虎口が築かれて、城外に通じている。
 この様に、戸根林楯は主郭外周の約4/5程を横堀・帯曲輪で囲繞した構造で、防衛陣地のように守りを固めている。歴史が残っていないことからすると、軍事作戦上、一時的に取り立てた付城のようなものであったのかもしれない。伊達勢による構築であろうか?
南東部の横堀→IMG_5314.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.148716/140.009047/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
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タグ:中世平山城
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御館山城(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]

IMG_5221.JPG←山頂の大江高基と3家臣の墓
 御館山城は、寒河江城を本拠とした寒河江大江氏滅亡の地である。貫見では、「大江懐顕貫見楯に住す」「政顕要害楯に住す(1292年)」と大江氏系図にあるのを始めとし、大江一族が古くからこの地で勢力を養っていた。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって寒河江大江氏18代高基は、寒河江城から甥の松田彦次郎の拠る貫見楯に逃れ、12家臣が防戦している間に高基は御館山城に登り、3家臣と共に自刃したと言う。

 御館山城は、標高438m、比高238mの御館山に築かれている。まともに山麓から登ったら大変だが、幸い西麓の貫見集落から御館山の南まで林道が伸びており、途中までは車で登ることができる。途中からは歩きとなり、30分程度で御館山に至る。肝心の遺構であるが、かなり不明瞭で、ほとんど普請されておらず自然地形にしか見えない。従って城郭遺構を期待して訪城するのはお勧めできない。しかし城跡とされる山頂の平場には、ここで自刃して果てた大江高基と3家臣の墓が建てられており、重要な歴史を刻んだ場であることは確かであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.370766/140.109576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


最上義光 (人物叢書)

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
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貫見要害城(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]

IMG_5202.JPG←曲輪間の段差
 貫見要害城は、単に要害城と呼ばれ、御館山城に対する根古屋、または居館であったと推測されている。寒河江大江氏の系図によれば、1292年に大江政顕が要害楯に住したとある。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって寒河江大江氏の18代当主高基は、寒河江城から甥の松田彦次郎の拠る貫見楯に逃れ、家臣たちが防戦している間に高基は御館山城に登って自刃したと言う。この貫見楯とは、要害城のことであった可能性が高いと思われる。

 貫見要害城は、小清川東岸の丘陵上の高台に築かれている。この高台は南北に長く、内部は3段程の平場に分かれている。明確な掘切はなく、段差のみで区画されているが、真ん中の曲輪は以前は宅地であったらしいので、改変で堀切が湮滅した可能性もある。いずれにしても遺構は僅かである上、それほどの要害地形とも思われず、寒河江氏家臣団が最後の防戦を行ったとするには少々物足りなさを感じる。
 尚近くには、大江高基を庇って最後の防戦をして討死した12人の家臣の墓がある。
大江氏12家臣の墓所→IMG_5189.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.370194/140.099105/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

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  • 発売日: 2019/08/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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貫見大城(山形県大江町) [古城めぐり(山形)]

IMG_5172.JPG←大空堀
 貫見大城は、単に大城(だいじょう)と呼ばれ、寒河江大江氏最後の当主大江高基の弟隆廣の城であったと伝わっている。築城時期は不明だが、『山形県中世城館遺跡調査報告書』では鎌倉時代の築城としている。1584年、山形城主最上義光の攻撃によって高基は寒河江城から貫見楯に逃れ、家臣たちが防戦している間に高基は御館山城に登って自刃したが、この時隆廣も貫見楯で戦い自刃したと言う。

 貫見大城は、月布川曲流部に南から突き出た台地上に築かれている。県道27号線の南側が高台となっていて、そこが主郭であったらしい。以前は集合住宅か何かが建っていたらしいが、現在は何もなく雑草に覆われた空き地となっている。主郭内部は改変のせいと雑草で明確な遺構は不明であるが、主郭の南東から南にかけて台地基部を分断する大空堀がはっきりと残っており、県道側からも空堀跡を望むことができる。よく見ると、空堀が弧を描いて曲がる部分にのみ、主郭外周に帯曲輪が見られる。この他に土塁や井戸跡も残るとされるが、よくわからなかった。県道からの台地入口には「大城」の石柱が立っている。

 尚、城の名前であるが、「大城」ではどこのことかさっぱりわからないので、ここでは貫見大城と記載した。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.384913/140.120541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

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  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
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慈恩寺城館群 その2(山形県寒河江市) [古城めぐり(山形)]

 慈恩寺城館群には2018年の秋に行っているが、まだ草枯していない初秋であったので、一番城跡らしい遺構を残している日和田楯に行くことができなかった。今回は日和田楯を踏査する為、草枯した晩秋に訪城した。

【日和田楯】
IMG_5141.JPG←主郭背後の大空堀
 日和田楯は、一説には日和田五郎と言う者が南北朝期頃に楯主であったとされる。楯腰稲荷神社背後の比高40m程の丘陵突出部に築かれているが、神社が建っているのもかつての楯の腰曲輪である。頂部に長方形に近い形状の主郭を置き、東と南に腰曲輪を廻らし、大切岸の東下に更に数段の腰曲輪を築いている。主郭内部は薮が多くてわかりにくいが、南東角部が一段低くなっており、内枡形の虎口であった様である。また主郭の北角には櫓台が築かれ、その背後はL字型の大空堀を穿って台地基部と分断している。この他に、大空堀の外側にも腰曲輪群がある様だが、薮がひどかったので未確認である。
 尚、この楯を中心に、日和田集落をコの字型に内堀・中堀・外堀の三重の堀で囲んだ総構えの構造を持っていたと言うが、現在は残っていない様だ。
主郭の腰曲輪→IMG_5131.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.409180/140.257291/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


城のつくり方図典 改訂新版

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  • 作者: 三浦 正幸
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2016/02/26
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タグ:中世山城
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小山家城(山形県天童市) [古城めぐり(山形)]

IMG_5109.JPG←わずかに残る腰曲輪と切岸
 小山家城は、山家城主山家氏の一族、小山家師時が築いた城と伝えられる。師時は、山家師兼の弟で、山形城主最上義光によって、1583~4年頃に700石の所領でこの地に封じられたと言う。それは、庄内攻略の戦功によるものとも、或いは天童城落城後に不穏な動きのあった北部の土豪達に備えるためであったとも言われる。いずれにしても、20年程にわたってこの地を支配したが、師時の夫人は秋田増田城主土肥道近の姉であった縁で、1603年に増田に移住して帰農したと伝えられる。

 小山家城は、比高30m程の丘陵上に築かれている。この丘陵は、大半が果樹園に変貌しており、遺構はわずかしか残っていない。一応、果樹園内にも段々になった平場が見られるが、切岸と言うほど明瞭に区画されておらず、かなり改変されてしまっているように見受けられる。主郭があったと思われる頂部も、形状がはっきりしない。『山形県中世城館跡調査報告書』には、「13~14段の帯曲輪が配され、北側に空壕がのこっている」とされるが、これもはっきりしない。唯一明確なのは主郭北側の山林内で、腰曲輪らしい平場と切岸らしい地形が残っている。この他、南麓の山元沼は水濠跡だったと言うが、これも大きく地形が改変されていると思われる。南麓の車道脇には立派な城址石碑と解説板が立っているが、遺構はかなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.369706/140.396057/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


最上義光 (織豊大名の研究6)

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水の手楯(山形県最上町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4987.JPG←腰曲輪の櫛歯状竪堀
 水の手楯は、歴史不詳の城である。志茂の手楯も、その別名を水の手楯と伝えられるが、水の手楯と志茂の手楯は位置が隣接しているので、両者を混同したものとも考えられる。また城の形態としては、志茂の手楯が巨大な二重空堀で一城別郭とした豪壮な造りであるのに対して、水の手楯は堀の少ない単純な縄張りであることから、志茂の手楯に伝わる「小国城主細川摂津守直元の弟帯刀直茂の居城」とは、実はこの水の手楯のことで、志茂の手楯は細川氏を滅ぼした最上氏の勢力が新たに築いた城ではなかったかと個人的に推測している。

 水の手楯は、標高283.6m、比高80m程の八森山に築かれている。その点では、八森山楯と呼ぶ様にした方がわかりやすいかもしれない。志茂の手楯の築かれた山の隣の峰で、直線でわずか600m程しか離れていない。明確な登り道はないので、農道が山裾まで伸びている南東麓から斜面を直登した。山頂に瓢箪型の主郭を置き、その北東に台形状の二ノ郭、また南西から南面を周って南東まで腰曲輪を廻らし、更にこれらの最外周に腰曲輪を築いた縄張りとなっている。主郭と二ノ郭には土塁も堀切もなく、切岸だけで区画されている。また主郭南西の腰曲輪の下にある腰曲輪には、先端に土塁が築かれ、左方に竪堀状の虎口が築かれている。また二ノ郭周囲の腰曲輪には、櫛歯状の竪堀群が刻まれている。これは志茂の手楯の二ノ郭腰曲輪にも同様の構造がある。この点では、水の手楯と志茂の手楯とで、築城主体が同一であった可能性も考えられる。細川氏滅亡後、最上氏は当初水の手楯を改修して使用しようとしたものの、地形面の制約から新たに志茂の手楯に移ったものであろうか?この他、二ノ郭周囲の腰曲輪には、竪堀の様な桝形虎口らしい構造も見られる。
 水の手楯は、普請は明確で、ある程度の広さを持った山城であるが、櫛歯状竪堀群以外に技巧的構造がなく、素朴な形態を残している。
腰曲輪と二ノ郭切岸→IMG_5001.JPG
IMG_5044.JPG←南西腰曲輪の土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.774261/140.467705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
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タグ:中世山城
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荒屋楯〔仮称〕(山形県金山町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4874a.jpg←南斜面の畝状竪堀
                            (青線が竪堀)
 荒屋楯は、私が2019年11月に新発見した山城である。速報は、その時に簡単に掲載したが、今回は詳報を記載する。
(写真・画像は、クリックで拡大します)

【縄張り】
 山頂部に東西に細長い主郭を配置する。郭内は後部で2段に分かれ、中央が高く両翼は一段低くなっている。その後部には土塁を築き、更に明確な二重堀切で背後の尾根を分断している。また主郭両翼に当たる南北の斜面には、びっしりと畝状竪堀が穿たれている。最上氏の勢力圏によく見られる畝状竪堀と同形状で、竪堀の長さは短く、畝のような竪土塁はコブ状(イモ虫状、或いはオムライス状とも言える)となっている。帯曲輪から竪堀が落ちる形態で、付近にある愛宕山楯と同種のものである。南側の畝状竪堀は薮が少ないので見易く、ざっと数えて24本もの竪堀が穿たれている。一方、北側のものは草木に覆われていて、非常に見辛い。辛うじて畝状竪堀のコブがいくつか確認できるだけである。しかし北側も主郭の長さ分だけの竪堀群があるらしく、こちらも20本程度は竪堀が穿たれていると推測される。これらはいずれも、山形県内の畝状竪堀としてはトップクラスの数である。これらの畝状竪堀は、主郭背後の二重堀切から落ちる竪堀と連続して構築されている。主郭の西側には二ノ郭があるが、削平は甘い。二ノ郭の西側に尾根を区画する小堀切が穿たれている。その先は自然地形の尾根であるが、謎のL字土塁が確認できる。土が硬いので、明らかに土塁として築かれたものであるが、役割は明確ではない。もしかしたら枡形虎口の土塁かもしれない。もしそうだとすると、二ノ郭の西側にも外郭があったことになる。遺構は以上である。
南斜面の畝状竪堀→IMG_4973a.jpg
IMG_4915.JPG←主郭背後の二重堀切
主郭背後の切岸→IMG_4918.JPG
IMG_4929.JPG←主郭後部の土塁
南斜面の畝状竪堀→IMG_4932a.jpg
IMG_4940a.jpg←北斜面の畝状竪堀
二ノ郭背後の小堀切→IMG_4911.JPG

【位置関係からの城の役割の考察】
 荒屋楯は、金山川西岸にそびえる標高230m、比高60m程の山上に築かれている。
 荒屋楯と金山城愛宕山楯との位置関係を地形図に落とし込むと、下図の様になる。(国土地理院発行1/25000地形図と傾斜量図を重ねたものに加筆)
金山城周辺図1.jpg
 金山城の南西の平地に広がっていたと推測される城下集落を囲むように、ほぼ正三角形に各城が配置されている。その為、城下集落にはこれら3城による挟撃ゾーンが形成される。(下図)
金山城周辺図2.jpg

 この地の主城は、最上氏家臣の丹与惣左衛門が居城とした金山城であるから、荒屋楯は愛宕山楯と共に、金山城下に侵攻する敵勢を、側面から牽制・攻撃する役目を負っていたと考えられる。最上氏の山城では、比較的小規模な城に畝状竪堀が構築されていることが多い。これは少数の兵しか置けない出城で、効果的に敵勢を撃退するための工夫と考えられるから、荒屋楯と愛宕山楯は、まさに少数の兵で側面から敵を牽制する目的で築かれたと推測できる。
金山城周辺図3.jpg

 これらの状況から、荒屋楯は仙北小野寺氏に備えたものか、或いは関ヶ原前夜の緊張状態の中で庄内の上杉勢に備えたものと推測できる。

【城へのアクセス】
 登山道はない。私は取り付きやすい南東の斜面を直登した。それほどきつい斜面ではないので、山城に慣れたキャッスラーなら登攀できる。またこの山は間伐や植林がされているので、適度に薮払いされている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.882181/140.329292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

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  • 作者: 里志, 保角
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/08/16
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タグ:中世山城
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平岡館(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4865.JPG←主郭背後の三重堀切
 平岡館は、鮭延氏の家臣柿崎馬乃丞が永禄年間(1558~70年)に居住したと伝えられる。但し館主については、『日本城郭大系』では姉崎能登守、或いは姉崎右馬丞としており、柿崎と姉崎とどちらが正か、よくわからない。いずれにしても、平岡館主は鮭延越前守秀綱と行動を共にしたらしく、1581年に山形城主最上義光によって鮭延城が攻略されると、行方不明になったと言う。

 平岡館は、金山川と西の沢川に挟まれた台地の南西端に築かれている。台地上は「まむろ川温泉 梅里苑」となっており、そこから散策路が館跡まで伸びているので、楽に訪城できる。三角形に張り出した台地の突端を、堀切で分断しただけの簡素な城館で、規模も小さい。主郭は背後に土塁を築き、その裏に三重堀切を穿って防御している。山形に多い中間阻塞型の多重堀切であるが、この三重堀切は普請が中途半端で、3つの堀が階段状に並んでおり、中堀と外堀は非常に浅く、ちょっとした畝程度にしかなっていない。三角形をした主郭の先端には、側方に腰曲輪、尾根の先には段曲輪が築かれているが、いずれも規模は小さい。この他、三重堀切の東側は二ノ郭であったらしく、西側に浅い堀と低土塁があり、土橋らしいものも見られる。以上が平岡館の遺構で、居館と言うよりも物見を主任務とした簡素な小城砦であった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.866929/140.278362/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

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タグ:中世崖端城
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野崎楯(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4785.JPG←主郭北端の堀切
 野崎楯は、この地の土豪佐藤氏の居城と伝えられる。佐藤次郎勝信の子孫がこの地に移住して大沢村一帯を支配したが、佐藤大和守信基の時に、鮭延城主鮭延越前守秀綱を助けたことから、その家臣になったと言われている。1581年の山形城主最上義光による鮭延城攻撃の際には、弟下野守信包・嫡子右京信稚・2男美濃信秀・3男備中義次・家老沓沢(玄蕃?)・差首鍋楯主鳥海十郎信道らと共に応戦したが、力尽きて館に火を放って自刃したと伝えられる。その後、最上氏に臣従した秀綱が鮭延城に復帰すると、信基の子である信秀と義次は秀綱の家臣となり、再び大沢の地を支配した。1622年に最上氏が改易になると、帰農したと言う。

 野崎楯は、鮭川と小又川に挟まれた比高30m程の台地南端部に築かれている。三角形、もしくはイチョウの葉形をした広大な主郭を台地上に置き、その周囲に帯曲輪を廻らした縄張りとなっている。主郭の東側に1段の帯曲輪が延々と築かれ、南東辺ではその下に横堀が穿たれている。主郭は東側に突出しており(イチョウの葉形の根元の部分)、下方の帯曲輪に対して張り出した櫓台となっている。この部分の帯曲輪には、東尾根に降っていく城道があり、横堀が堀切を兼ねて穿たれ、その先の尾根には物見台がある。また主郭の南端には3段ほどの段曲輪が築かれ、その内2つには神社・祠が建っている。主郭内の北部にも神社が建っている。主郭の北端には堀切が穿たれ、その先には小郭が置かれている。その先の尾根は長泉寺の墓地に改変されているので、遺構は明確ではないが、墓地の北側に切通しの小道があり、これも堀切の跡ではないかと推測される。この他、主郭の西斜面にも帯曲輪があるようだが、草木が多くてあまり明確にはわからない。
 遺構は以上で、主郭が広い城であるが、縄張りとしては比較的単純である。城へ登るのは、南端の神社からがわかりやすい。以前は神社の近くに楯跡の標柱があったらしいが、現在はなくなっている。
南東山腹の横堀→IMG_4756.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.888594/140.218538/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光 (人物叢書)

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長里楯(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4642.JPG←帯曲輪と繋がる二ノ郭の二重堀切
 長里楯は、歴史不詳の城である。沓沢玄蕃が楯主との伝承があるらしい。沓沢玄蕃と言えば、一時期、差首鍋楯の楯主でもあったとされている。長里楯とは直線距離で北方に1.6km、山一つ隔てただけの位置にあるので、差首鍋楯の出城であることが推測され、また主君の沓沢忠家の後見として家老の沓沢玄蕃がこの城に詰めていたとも考えられる。

 長里楯は、標高180m、比高80m程の山上に築かれている。地元のご老人に登り口を訪ねたところ、中腹までなら東麓の柿の木の脇のコンクリートの小道から登っていけるとのことであった。教えてもらった通りに山林に入っていくと、小さな神社の建つ広い平場が広がっている。どうも山麓の居館があった様である。この平場の北東隅は高台となり、そこから東に細尾根が伸びていて、物見であったらしい。また北西に行くと何段かの平場が見られ、北側に降る城道らしい跡もある。これらの東麓の平場群の背後に、主城部から北東に伸びる細尾根がそびえている。斜面を直登してこの尾根に取り付き、登っていけば主城域に至る。最初に見えてくるのは小さな物見台で、背後に小堀切を穿っている。その後ろには2段の段曲輪があり、その上に主郭がある。東西方向に東から主郭・二ノ郭・三ノ郭を並べた連郭式の縄張りであるが、斜度の緩い南側にいくつもの腰曲輪を築いている。主郭と二ノ郭は、それぞれ後部を二重堀切で分断しており、特に二ノ郭背後のものはしっかりした規模である。主郭から二ノ郭にかけての南側には一段低く、扇形の腰曲輪がある。この腰曲輪は、三ノ郭南の腰曲輪と二重堀切を挟んで対向しており、腰曲輪同士を繋ぐ木橋が架かっていた可能性がある。三ノ郭の背後も小堀切で区画されている。一方、前述の扇形腰曲輪の下方には、更に2段の帯曲輪が築かれ、下段の帯曲輪は土塁を築いて木戸口を防衛し、曲輪の内側は窪んで横堀状となっている。その東側には上段の帯曲輪から小堀切で区画された物見台があり、帯曲輪との間を竪堀状の城道が降っている。見た感じでは、この主郭の南東に伸びる尾根が大手道であったように思われる。また上段の帯曲輪の西側は二ノ郭背後の二重堀切に繋がっていて、堀底道となっていることが明らかである。
 主城部は普請がしっかりしており、特に南斜面の曲輪群は比較的技巧的に構築されており、薮も少ないので見応えがある。しかし主郭や二ノ郭は低い草木が多くて遺構がわかりにくいのが難である。
 尚、『山形県中世城館跡調査報告書』の縄張図では、標高212mの峰から南東に伸びる尾根に城があるように描かれているが、実際の位置は東の尾根が正しい。
主郭の二重堀切→IMG_4716.JPG
IMG_4623.JPG←下段帯曲輪の土塁
南東尾根の小堀切と物見台→IMG_4616.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.918752/140.196115/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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タグ:中世山城
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砂子沢楯(山形県真室川町) [古城めぐり(山形)]

IMG_4409.JPG←主郭背後の三重堀切
 砂子沢楯は、佐藤隼人と言う武士が秋田からこの地に移ってきて築城し、居を構えたとされる。鮭延氏の入部(一族を率いて出羽に下向した佐々木綱村(鮭延氏の祖)が、仙北小野寺氏の客将となった時のことか?)によって帰農したと伝えられる。

 砂子沢楯は、鮭川西岸に西から突き出た丘陵先端部に築かれている。城内を大堀切で分断した一城別郭の城で、堀切の上部に主郭群、下部に二ノ郭群を配置している。これらの遺構の内、『山形県中世城館跡調査報告書』の縄張図に記載されているのは主郭群だけで、これは城域全体の1/3程に過ぎない。主郭には現在高圧鉄塔が立っている。その西150m程の所に給水施設のある林道が通っており、そこから東に小道を進んでいくと城域に至る。最初に見えてくるのが綺麗な三重堀切で、薮が伐採されているので見事な姿を現している。こんなに綺麗に整備された三重堀切は滅多に見られない。山形に多い中間阻塞型の多重堀切で、土塁の南端部が僅かに内側にくの字型に曲がっている。堀切の東が主郭群で、堀切に面して土塁を築き、郭内は3段の平場に分かれている。上段郭には前述の通り鉄塔があり、先端部には2段の腰曲輪が築かれている。その先は大きな鞍部で、大堀切となっている。その前には二ノ郭群の最上部の櫓台がそびえている。櫓台の前面(東側)は傾斜のある広尾根となっていて、下の方に曲輪群が置かれている。この広尾根の両側(南北)は広い腰曲輪で、特に北側のものは大堀切から下部の曲輪まで繋がっている。二ノ郭群の下方にはいくつかの平場が見られ、その内の一郭に薬師堂が建てられている。これら下方の曲輪群の北辺には幅広の土塁が築かれ、東端に櫓台が構築されている。二ノ郭群の南側の腰曲輪は、南辺に土塁を築き、要所で上部の曲輪の塁線が張り出している。この腰曲輪を西に登っていくと、上の方には物見台や大型の櫓台が構築されている。二ノ郭群にはこの様に、物見台・櫓台・腰曲輪が多数構築されている。遺構から見る限り、戦国末期まで使われたことが想定され、鮭延氏や最上氏によって佐藤氏帰農後も使われたのではないかと思われる。
大堀切と二ノ郭上部の櫓台→IMG_4456.JPG
IMG_4483.JPG←二ノ郭群北東端の櫓台
二ノ郭群南側の腰曲輪と土塁→IMG_4525.JPG
IMG_4546.JPG←南側腰曲輪の上部の大櫓台
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.893705/140.210191/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。

最上義光の城郭と合戦 (図説日本の城郭シリーズ14)

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  • 発売日: 2019/08/16
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タグ:中世平山城
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源氏楯(山形県鮭川村) [古城めぐり(山形)]

IMG_4324.JPG←円弧状の横堀
 源氏楯は、歴史不詳の城である。伝承では前9年の役の際に八幡太郎源義家が拠ったと伝えられるが、同様な伝承は東北各地にあり、元より当てにはならない。城の形態から推測して、「この地域に残存する城館の中では古い時代に属するもの(『日本城郭大系』)」との見解もあるが、明証はない。

 源氏楯は、標高170m、比高100m程の山上に築かれている。中央の峰が大館、南北の小ピークが小館とされる。しかし明確な遺構が残っているのは大館だけで、小館はほとんど自然地形の小平場である。大館は、中央に数段の曲輪群で構成された主郭群を置き、その南斜面から東尾根にかけて数段の帯曲輪群を配し、主郭群の南西に、円弧状横堀を介して二ノ郭を築いている。主郭群の東直下には、小堀切の先に物見台がある。またその下の帯曲輪の側方には竪堀状の城道があるようだが、薮がひどくてわかりにくい。この他、南北の小館との間の鞍部は、北側では山道が伸びているようであり、南側は堀切と鞍部の平場群が見られる。源氏楯は、比較的素朴な形態を残した山城であるが、間道を押さえる物見の城としては、十分な普請が見られる。
 尚、城へは東麓の川崎観音から登っていくのだが、下から見ると城まで登り道があるように見えるが、途中で薮に覆われ、道がわからなくなってしまう。結局南側の鞍部に取り付き、そこから南斜面の帯曲輪群に登っていくのが正解だと、降りる時にわかった。帯曲輪群はいずれも薮が繁茂して、遺構の確認がしづらい。
主郭群の段差→IMG_4376.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.826018/140.188390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

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タグ:中世山城
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白須賀元館(山形県大蔵村) [古城めぐり(山形)]

IMG_4274.JPG←神社裏に残る堀切
 白須賀元館は、最上氏の庶流清水氏の初期の居館である。1476年、山形城主最上義春は北方の押えと最上川の水運掌握の為に、この地に一族で成沢城主成沢兼義の子・孫次郎満久を配し、満久はこの地に居館を構えた。しかし2年後の1478年、風光明媚で要害険阻な比良台に新たに清水城を築いて居城を移したと言う。この為、初めて入部したこの地は「元館」または「古館」と呼ばれるようになった。

 白須賀元館は、清水城の東方1km程の位置にある。比高10m程の舌状台地の先端部にあるが、現在は館跡に大蔵村保育所や八幡神社が建てられている。従って館域のほとんどは改変を受けていて、平場が広がる以外の明確な遺構に乏しいが、しかし八幡神社の裏には立派な土塁と堀切が半分以上残っており、往時の姿を留めている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.697334/140.236648/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


最上義光 (人物叢書)

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