SSブログ

大瀬川楯(岩手県花巻市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8356.JPG←主郭後部の土塁と空堀
 大瀬川楯(大瀬川館)は、天正年間(1573~92年)に稗貫氏の家臣瀬川隠岐守の居城であったと伝えられる。瀬川氏は、畠山重忠の弟重宗の後裔、或いは重忠の嫡子重保の子重行の後裔と言われ、当初は大瀬川殿と称されたと言う。1556年には高水寺斯波氏の攻撃を受けている。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で稗貫氏が改易となった後、旧臣団が蜂起した和賀・稗貫一揆に瀬川氏も加わった。後には稗貫氏の旧領を支配した南部氏に出仕したと言う。

 大瀬川楯は、葛丸川南西の丘陵上に築かれている。東北自動車道の建設に伴って岩手県内で昭和47~53年の7年間にわたって各地の発掘調査が行われ、大瀬川楯も発掘調査が行われた。その結果、空堀で囲繞され、南北に連なる3つの曲輪で構成されていたことが確認された。しかしその後の高速道路建設、それに伴う周辺車道建設により、現在は一番北の主郭だけが残存し、二ノ郭・三ノ郭は削られて湮滅している。西の車道から薮を適当にかき分けて登っていけば、まもなく空堀が見えてくる。主郭は城内で最大の曲輪で、南北に長く、外周を空堀で囲んでいる。北辺は大きく弧を描く塁線となっており、空堀に沿って主郭後部に土塁が築かれている。空堀はよく残っているが、規模は小さい。西辺の空堀は二重横堀であったらしいが、内堀は浅い溝状であったらしく、現状では内堀は確認できない。主郭の東辺は削られてしまっている。主郭内は削平が甘く、地山の形状を残しているが、発掘調査では建物跡が多数見つかっている。また主郭内には標高176.5mの三角点がある。主郭の南には空堀を挟んで二ノ郭があったはずだが、現在は自然地形だけで明確な遺構はほとんど残っていない。二ノ郭の南にあった三ノ郭は、削られて完全湮滅の状態である。以上が大瀬川楯の遺構で、技巧性はほとんど無く、のっぺりした印象の見栄えしない城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.496631/141.105244/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー