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大島城(長野県松川町) [古城めぐり(長野)]

DSCN9095.JPG←大手丸馬出しの三日月堀
 大島城は、武田氏の下伊那の拠点城郭である。元は在地豪族大島氏の小城砦であった。1554年、下伊那を制圧した武田信玄は、この小城に深志城在番の日向大和守を城将として置き、高遠城飯田城の間の繋ぎの城として重視した。西上作戦に先立つ1571年3月、信玄は飯田城代・伊那郡代の秋山伯耆守信友に大島城の大改修を命じた。それは下伊那19の郷民と知久衆・今田衆の2衆を動員する大規模な普請であった。この時、小城砦であった大島城は、武田氏の築城技術を投入した拠点城郭に変貌を遂げた。翌72年夏、信玄は西上作戦を敢行し、遠江の諸城を攻略し、三方ヶ原では徳川家康を撃破した。しかしその数ヶ月後、信玄は病に倒れ、甲斐への帰途、信州駒場で陣没した。1582年2月、織田信長は武田征伐を開始した。武田勝頼は織田軍の侵攻に備え、大島城に拠る城将日向大和守と3000の兵に加え、武田逍遙軒信廉(信玄の実弟)・小原丹後守・安中氏らを援将として派遣したが、織田信忠率いる織田先鋒隊が14日に飯田城を落とし、更に大島城に迫ると、大島城の武田諸将は戦わずして逃亡し、城は自落した。信忠はそのまま大島城に入り、河尻秀隆・毛利秀頼を置いて管理させた。3月、武田氏が滅亡すると、その報を受けた信長は、大島城の城下町と思われる大島町に禁制を掲げて治安の維持を図った。大島城は、これ以降文献から姿を消した。1593年、飯田城主京極高知は街道整備のため大島城下町を約4km北西に移しており、遅くともこの時点で大島城は廃城になったと考えられる。

 大島城は、天竜川曲流部に突き出た半島状の断崖に築かれている。現在は台城公園として整備されており、一部改変を受けているものの遺構をよく確認することができる。基本は先端から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ねた連郭式の縄張りであるが、各曲輪を大きな空堀で分断し、要所に横矢を掛け、更に馬出しを複数設けた技巧的な縄張りとなっている。台城公園の駐車場に乗り付けると、最初に現れるのが大島城のシンボルともいうべき大型の丸馬出で、外周を二重の三日月堀で防御している。馬出し内には民家が建っている。この丸馬出しから三ノ郭に土橋が架かり、三ノ郭には枡形虎口が構築されている。土橋の脇の空堀は、北側は残っているが、南側は埋められてしまっている。三ノ郭は南東に突き出た長靴型をした曲輪で、二ノ郭との間には角馬出しが設けられ、北側には搦手の丸馬出しが独立堡塁の様に築かれている。武田氏の城としては角馬出しがあるのは珍しい。二ノ郭にも枡形虎口がある。大島城の枡形は、動線がクランクする普通のタイプではなく、躑躅ヶ崎館新府城で見られる、[ ] 形の虎口である。二ノ郭も三ノ郭同様に南東が突き出た形状をしており、主郭空堀に対して横矢を掛けている。主郭は長円形の曲輪で、北東から北側にかけて腰曲輪や井戸曲輪が構築されている。この他、二ノ郭・主郭の北側には一部二重の横堀の防御線、南側にも一部三重の横堀の防御線が築かれ、特に主郭南西には独立堡塁が築かれて下方の敵を迎撃できるようになっている。堡塁の上にはニノ郭先端が突き出ており、更に上から攻撃できるようになっている。大島城は、巨大な城ではないが、コンパクトに纏められた中に数々の築城技術が投入されており、武田氏の築城技術の一つの到達点を示している。
二ノ郭から見た主郭空堀→DSCN9285.JPG
DSCN9288.JPG←南側の二重横堀
角馬出し→DSCN9360.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.576140/137.916945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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