SSブログ

岩清水楯(岩手県矢巾町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN8992.JPG←四重堀切の一部
 岩清水楯(岩清水館)は、高水寺城主斯波氏の家臣岩清水氏の居城である。建武の新政期に足利尊氏の命で奥州に下向した斯波家長は、高水寺城に入るまでの間の一時期、この地の豪族岩清水泰秀が館へ迎え入れ、岩清水御所と呼ばれたとされる。時代は下って戦国末期の1588年、楯主岩清水右京亮義教は、梁田中務らと共に南部氏に通じ、主家斯波詮直に対して叛乱を起こした。これは詮直が家臣の諌めも聞かず、日夜遊興に耽ったためと言われる。右京の兄岩清水肥後守義長は、ただちに三百余騎の兵を率いて岩清水楯を攻撃したが、敗北した。詮直自ら討伐に出陣したが、南部信直がこの虚に乗じて斯波領に侵攻したため、詮直は居城の高水寺城に引き返した。しかし結局南部勢に敗れて高水寺斯波氏は滅亡し、岩清水義長は討死した。岩清水義教はそのまま南部氏に仕えたと言う。

 岩清水楯は、標高299m、比高70m程の館山に築かれている。登道の情報がなかったので、間違いないルートということで、北尾根を貫通する車道脇から尾根に取り付いて、尾根を南に向かって訪城した。尾根を暫く進むと小堀切があり、三ノ郭が現れる。三ノ郭は尾根上の小さな曲輪で、側方に帯曲輪を伴っている。その先に中規模の堀切が連発で現れる。この主郭背後の堀切は、『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では二重堀切となっているが、実際にはなんと四重堀切となっている。一番内側は、二ノ郭後部が狭まって堀切形状となっているので、これを曲輪の一部とみなして堀切の数に入れないとしても三重堀切である。この四重堀切では、東側は堀切から竪堀が落ちており、特に内堀から落ちる竪堀は大竪堀となっている。2本目の堀切から落ちる竪堀は、西側で二ノ郭下にある腰曲輪の虎口と直交しており、この虎口は側方に櫓台を置いた堀状通路となっている。四重堀切の外堀手前には大土塁がそびえて、視界を遮断している。主郭は、後部では1段だが、前方に行くに従って外周部が一段低くなり、内部が2段に分かれている。主郭の周りには二ノ郭が全周している。二ノ郭の南にも段曲輪群があり、この段曲輪群に通じる竪堀状虎口が二ノ郭に見られる。この虎口の正面には主郭の切岸がそびえており、侵入してくる敵兵を主郭から迎撃できるようになっている。また段曲輪先端に大石があるが、櫓の柱の「ほぞ穴」と推測されている一直線の穴が残っている。以上が岩清水楯の遺構で、しっかりした普請の跡がよく残っているが、全体的に薮がひどく、明確に分からなかった部分もある。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図では東斜面にも腰曲輪群があるとされるが、薮がひどくて確認できなかった。
主郭切岸と二ノ郭→DSCN8990.JPG
DSCN9067.JPG←大石に残るほぞ穴

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.582184/141.097713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー