一夜城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]
←主郭
一夜城は、1574年の武田勝頼の東濃侵攻の際、勝頼が本陣を置いた陣城と伝えられる。一夜城の名は、明知城攻めの際に武田方の将秋山伯耆守が戸障子を立てて白壁の城のように見せかけたという伝承から名付けられたと言う。
一夜城は、標高720.4mの山上に築かれている。北東尾根の林道脇に昨年の山城サミットで設置された誘導標識と幟があり、そこから登道が整備されている。この道を進んでいくと、最初に現れるのが小ピーク上にある北出曲輪で、本城との間を堀切で区画している。しかしこの出曲輪が置かれている意味がよくわからない。かつての大手道がこの尾根にあったのであれば、城の前衛の曲輪と言うことになる。この南西の山上には主郭がある。主郭はほとんど地山に近く、あまり削平されていない。南側に一段低く腰曲輪が見られる他、主郭中央部が鞍部となっていて堀切のようにも見えるが、いずれも普請の痕跡はわずかである。また北斜面には明確な武者走りが築かれ、主郭外周下方を廻っている。遺構としてはこれだけで、織田信長が本陣を置いた諏訪ヶ峯砦よりも更に簡素な陣城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.323503/137.407207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
一夜城は、1574年の武田勝頼の東濃侵攻の際、勝頼が本陣を置いた陣城と伝えられる。一夜城の名は、明知城攻めの際に武田方の将秋山伯耆守が戸障子を立てて白壁の城のように見せかけたという伝承から名付けられたと言う。
一夜城は、標高720.4mの山上に築かれている。北東尾根の林道脇に昨年の山城サミットで設置された誘導標識と幟があり、そこから登道が整備されている。この道を進んでいくと、最初に現れるのが小ピーク上にある北出曲輪で、本城との間を堀切で区画している。しかしこの出曲輪が置かれている意味がよくわからない。かつての大手道がこの尾根にあったのであれば、城の前衛の曲輪と言うことになる。この南西の山上には主郭がある。主郭はほとんど地山に近く、あまり削平されていない。南側に一段低く腰曲輪が見られる他、主郭中央部が鞍部となっていて堀切のようにも見えるが、いずれも普請の痕跡はわずかである。また北斜面には明確な武者走りが築かれ、主郭外周下方を廻っている。遺構としてはこれだけで、織田信長が本陣を置いた諏訪ヶ峯砦よりも更に簡素な陣城である。
北出曲輪と堀切→
←北斜面の武者走りお城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.323503/137.407207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1