大胡城 その1(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]
←本丸の土塁と空堀と土橋
大胡城は、平将門討伐で功を挙げた鎮守府将軍藤原秀郷の裔、藤姓足利氏の庶流大胡氏の築いた城である。足利成行の重俊が勢多郡大胡に入部して大胡氏を称した。大胡氏は源平の争乱時には源頼朝に従って功を挙げたが、南北朝期から室町時代にかけての時期に惣領家は滅び、その一族が存続し続けた。戦国期に入ると関東管領上杉氏に従っていたが、河越夜戦で小田原北条氏が一気に南関東の覇権を握った後、大胡勝行は由良氏の圧迫を受けて北条氏に下り、江戸牛込に移り住んで以後牛込氏と称した。(→牛込城参照)その後、越後の上杉謙信が上野に進出してくると、大胡城に北条高広を入れた。謙信の死後、高広は武田勝頼に下り、更に勝頼が織田信長に滅ぼされると、最終的には小田原北条氏に従った。1590年に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、関東には徳川家康が入部し、大胡城には牧野康成が2万石で入った。1616年に牧野氏が移封になると廃城となった。
大胡城は荒砥川沿いの台地上に築かれた、この地方に多い丘城である。山上城などと同じく、南北に長く曲輪を連ねている。各曲輪は堀で分断されており、城のちょうど中央の最高所に本丸を置く。本丸は周囲の二ノ丸より5m程高くそびえていて、その周囲に空堀で防御している。本丸内の外周には比高の高い土塁が取り巻いている。本丸東側は絶壁となっている。本丸と二ノ丸は公園化されていて、遺構もほぼそのまま残っている。二ノ丸内には枡形虎口の石垣も残る。二ノ丸から西に下っていくと、玉蔵院跡という平場があり、その外側に外堀(小川)が残っている。本丸から深い堀(小川)を挟んで北にある北城には現在大胡幼稚園が置かれている。かつてはこの敷地の中に、堀で区画された馬出しがあったらしい。更にその北には幅の広い堀を挟んで近戸郭があるが、堀底には道路が通り、郭内には大胡神社が鎮座する。一方、二ノ丸の南には深い堀(小川)を挟んで三ノ丸があるが、テニスコートに変貌している。更にその南の南郭には前橋市役所大胡支所が置かれており、かつての面影はない。城の東側の平地部はかつての根小屋で、地名としても残っており、牧野氏の時代に家臣団の屋敷地として整備されたのであろう。
市街化で当時の面影が失せている部分も多いが、周囲の堀跡など全体に遺構は良く残っていて、とくに本丸周辺の遺構は一見の価値がある。現在でも十分要害性を感じることのできる、良好な遺構である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.419642/139.159377/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
※その後の再訪記はこちら。
大胡城は、平将門討伐で功を挙げた鎮守府将軍藤原秀郷の裔、藤姓足利氏の庶流大胡氏の築いた城である。足利成行の重俊が勢多郡大胡に入部して大胡氏を称した。大胡氏は源平の争乱時には源頼朝に従って功を挙げたが、南北朝期から室町時代にかけての時期に惣領家は滅び、その一族が存続し続けた。戦国期に入ると関東管領上杉氏に従っていたが、河越夜戦で小田原北条氏が一気に南関東の覇権を握った後、大胡勝行は由良氏の圧迫を受けて北条氏に下り、江戸牛込に移り住んで以後牛込氏と称した。(→牛込城参照)その後、越後の上杉謙信が上野に進出してくると、大胡城に北条高広を入れた。謙信の死後、高広は武田勝頼に下り、更に勝頼が織田信長に滅ぼされると、最終的には小田原北条氏に従った。1590年に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、関東には徳川家康が入部し、大胡城には牧野康成が2万石で入った。1616年に牧野氏が移封になると廃城となった。
大胡城は荒砥川沿いの台地上に築かれた、この地方に多い丘城である。山上城などと同じく、南北に長く曲輪を連ねている。各曲輪は堀で分断されており、城のちょうど中央の最高所に本丸を置く。本丸は周囲の二ノ丸より5m程高くそびえていて、その周囲に空堀で防御している。本丸内の外周には比高の高い土塁が取り巻いている。本丸東側は絶壁となっている。本丸と二ノ丸は公園化されていて、遺構もほぼそのまま残っている。二ノ丸内には枡形虎口の石垣も残る。二ノ丸から西に下っていくと、玉蔵院跡という平場があり、その外側に外堀(小川)が残っている。本丸から深い堀(小川)を挟んで北にある北城には現在大胡幼稚園が置かれている。かつてはこの敷地の中に、堀で区画された馬出しがあったらしい。更にその北には幅の広い堀を挟んで近戸郭があるが、堀底には道路が通り、郭内には大胡神社が鎮座する。一方、二ノ丸の南には深い堀(小川)を挟んで三ノ丸があるが、テニスコートに変貌している。更にその南の南郭には前橋市役所大胡支所が置かれており、かつての面影はない。城の東側の平地部はかつての根小屋で、地名としても残っており、牧野氏の時代に家臣団の屋敷地として整備されたのであろう。
市街化で当時の面影が失せている部分も多いが、周囲の堀跡など全体に遺構は良く残っていて、とくに本丸周辺の遺構は一見の価値がある。現在でも十分要害性を感じることのできる、良好な遺構である。
本丸と北城の間の堀跡→
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.419642/139.159377/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
※その後の再訪記はこちら。
タグ:中世平山城
2009-01-16 23:11
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コメント(2)
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空堀や土塁がきれいです。結構大きそうなお城跡ですね。
by ノリパ (2009-01-18 09:35)
ブログには書きませんでしたが、小規模ながら石垣も残っています。
本丸内に石をまとめて転がしてあるところがあったので、
虎口の両側はかつては石垣で固められていたものが
崩れてしまったものかもしれません。
by アテンザ23Z (2009-01-20 02:35)