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足利基氏陣所跡(埼玉県東松山市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC00612.JPG←土塁と堀跡
 一般的には、足利基氏塁跡、もしくは足利基氏居館跡と言われている遺構である。岩殿山合戦で布陣・駐屯した場所と言われており、塁跡では何のことかわかりにくく、居館では実質とかけ離れてしまうため、陣所跡と表記した。

 足利基氏は、室町幕府の初代将軍足利尊氏の3男で幼名を光王と言った。二代将軍義詮の実弟(同母弟)である。足利尊氏は建武の新政が始まると、関東の押さえとして、また奥州に下った北畠顕家を牽制するため、後醍醐天皇の皇子の一人を奉じて弟の直義を鎌倉に下向させた。中先代の乱が勃発して鎌倉が危殆に陥ると、尊氏は後醍醐天皇の聴許のないまま自ら軍を率いてこれを討伐し、鎌倉を奪還した。その後、尊氏離反の兆候を見て取った後醍醐天皇が新田義貞を尊氏討伐に向かわせたが、箱根竹之下の合戦を契機に新田軍が壊走すると尊氏はこれを追って西上し、京都争奪戦となった。その後、九州への敗走、筑前多々良浜の合戦、再上洛戦、摂津湊川の合戦と変転し、最終的に尊氏が北朝を擁立し京都に武家政権を樹立させると、嫡子義詮を鎌倉において、関東の押さえとした。10年ほどの幕府の安定期の後、執事高師直と弟直義の対立が尖鋭化し、師直のクーデターによって直義が失脚すると、尊氏は鎌倉の義詮を京都に呼び寄せ、政務を統括させた。その際尊氏は、義詮の代わりに基氏を鎌倉に置き、鎌倉府執事に上杉憲顕を任命した。実質的な鎌倉府の始まりであり、鎌倉公方の始まりである。
 このときの経緯を、今川了俊は難太平記の中で、「両御所(尊氏と直義)御談合あって、鎌倉殿を置かれて京都の(将軍の)御守護とされればよかろう。板東八か国を光王御料基氏にお譲りになって、『子々孫々、坊門殿(将軍)の代々の守りとなれ』と申し置かれた」というようなことを記している。実際には直義失脚の時の合議であるので、直義が再起を期すために打った布石と解することができよう。直義派の上杉憲顕が鎌倉府執事となったのがその証左である。

 以上が、基氏が鎌倉公方となった経緯であるが、基氏は父の遺命を守り、終生兄に背く事はしなかった。この基氏が、1363年に反乱を起こした芳賀禅可を討伐した岩殿山合戦で布陣・駐屯した場所が、この陣所跡で本陣が置かれた可能性が高いと言う。もともと土豪の居館があったのを利用したと思われる。
 陣所跡は、高坂台地西側の九十九川に向かった斜面に立地している。北側周囲を固める土塁と堀跡が残るほか、東西両面を防御する土塁と堀跡も残り、東側には物見台跡もある。斜面はやや傾斜がきつく、建物を建てることはできない。一方、九十九川に面した前面には何も遺構がないので、どういう形の陣所であったのか、ちょっと想像するのが難しい。遺構としてはやや中途半端な印象を受けるのが正直なところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.006045/139.371421/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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