宮沢城(山形県南陽市) [古城めぐり(山形)]
←本丸の切岸
宮沢城は、宮内城(館)、三桜城とも呼ばれ、熊野大社の300mほど北の丘陵上に築かれた城である。伊達家家臣大津土佐守が居住していたと伝えられている。戦国末期に上杉領となると、上杉氏重臣直江兼続は置賜を知行することとなり、宮沢城には元信州飯山城主尾崎家第20代の三郎左衛門重誉が入り、近隣の金山城主には越後平林城主色部修理亮光長が入り、山形の宿敵最上氏に備えたと言う。尾崎氏は兼続の母の実家の家系で、重誉は兼続の従兄弟の子、また色部光長は兼続の妹を妻にしており、兼続の親族で固めていたことから、南陽市街の一帯が対最上の前線基地として重視されていたことがわかる。その後、江戸時代の1国1城令により廃城となった。
現在、城址付近は一面の果樹園になっており、周囲の堀は水田になっている。かなり変貌してはいるものの、地形的には往時の面影を残しており、本丸や南丸、大手跡等が明瞭で、本丸周囲の切岸や腰曲輪もはっきりしている。また城の周囲を堀で囲んでいたらしく、一部は堀跡も比較的はっきりしている。しかし何分、城跡が果樹園であるため、勝手に中まで立ち入ることができないので、周囲から眺めるだけである。果樹園という性格上、これ以上の史跡としての整備は難しいだろう。ちょっと残念である。
尚、地図を見るとこの付近は菖蒲沢と言われている様であるが、「勝負沢」の転訛であると思われるので、宮沢城の周辺で合戦が行われたこともあったのかも知れない。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.081811/140.135400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
宮沢城は、宮内城(館)、三桜城とも呼ばれ、熊野大社の300mほど北の丘陵上に築かれた城である。伊達家家臣大津土佐守が居住していたと伝えられている。戦国末期に上杉領となると、上杉氏重臣直江兼続は置賜を知行することとなり、宮沢城には元信州飯山城主尾崎家第20代の三郎左衛門重誉が入り、近隣の金山城主には越後平林城主色部修理亮光長が入り、山形の宿敵最上氏に備えたと言う。尾崎氏は兼続の母の実家の家系で、重誉は兼続の従兄弟の子、また色部光長は兼続の妹を妻にしており、兼続の親族で固めていたことから、南陽市街の一帯が対最上の前線基地として重視されていたことがわかる。その後、江戸時代の1国1城令により廃城となった。
現在、城址付近は一面の果樹園になっており、周囲の堀は水田になっている。かなり変貌してはいるものの、地形的には往時の面影を残しており、本丸や南丸、大手跡等が明瞭で、本丸周囲の切岸や腰曲輪もはっきりしている。また城の周囲を堀で囲んでいたらしく、一部は堀跡も比較的はっきりしている。しかし何分、城跡が果樹園であるため、勝手に中まで立ち入ることができないので、周囲から眺めるだけである。果樹園という性格上、これ以上の史跡としての整備は難しいだろう。ちょっと残念である。
尚、地図を見るとこの付近は菖蒲沢と言われている様であるが、「勝負沢」の転訛であると思われるので、宮沢城の周辺で合戦が行われたこともあったのかも知れない。
本丸周囲の堀跡→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.081811/140.135400/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
勝負と菖蒲ですか。地名からも色々と分かることが
あるんですね。勉強になります。
by ノリパ (2009-07-06 18:12)
>ノリパさん
城めぐりをしていると、地図を見るのが楽しくなりますよ~。
この間も車を走らせていたら、
道の傍らのバス停が「堀の内」なんていうので、
「これは!」と思って周辺ウロウロしちゃいました。
by アテンザ23Z (2009-07-07 01:15)