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楯岡城(山形県村山市) [古城めぐり(山形)]

DSC08062.JPG←本郭北側に展開する腰曲輪
 楯岡城は、村山市街地の北東に隣接する楯山に築かれた山城である。1208年に前森今嶺が築城したと言われている。前森氏は4代52年間在城後没落し、1261年に本城氏が入部、5代144年間続いた。室町時代に入ると、山形城主斯波兼頼の孫満直の四男最上伊代守満国が1406年に入部して楯岡氏を称し、以来最上氏の庶流楯岡氏の居城となった。豊臣秀吉の時代になると、最上義光の命を受けた楯岡満茂は、秋田の小野寺氏を攻めて湯沢城を陥としてその城主となり、更に関ヶ原の合戦後の論功行賞で最上氏は庄内と共に由利地方を手に入れ、満茂を本荘城に置いて由利地方を統括させた。楯岡城は城主不在となった為、勤番を置いて城を管理した。1618年には最上義光の弟甲斐守光直が楯岡城に入り、城と城下町の整備を行ったが、1622年に主家最上氏が改易され、それに伴って楯岡城も廃城となった。

 楯岡城は、比高110m程の山上に築かれており、本郭が置かれている山は西楯山と呼ばれている。最高所の本郭から南西斜面に沿って、ニノ郭・三ノ郭を階段状に配置しているが、それ以外にも数多くの段曲輪や腰曲輪が築かれている。特に大手道とされる南西尾根に沿っては、執拗な程に段曲輪が築かれている。ここには石垣が見られるが、おそらくは当時の遺構ではないだろう。楯岡城跡は、太平洋戦争の際に防空監視哨が置かれていたそうなので、改変を受けている可能性があり、その頃のものかも知れない。段曲輪群の中に小さな堀切も散見される。また本郭北側の尾根筋に沿っても何段もの段曲輪が構築されている。こちら側にも草むらに埋もれた石垣があるが、こちらはどうも当時の遺構のようである。こちらには小さな横堀も作られている。西楯山の南東には中楯山があるが、中楯山に向かう尾根の鞍部には二重堀切が造られている。
 以上が楯岡城の主要部と思われるが、中楯山を見てみると、こちらにも幾つもの削平地が造られており、どうもこちらも城域であったらしい。後世の耕地化による改変の可能性も考えたが、横堀らしい地形まであったので、まず城郭遺構と見て間違いないだろう。こちらも多くの段曲輪と腰曲輪が作られているほか、中楯山本郭と中楯山ニノ郭の間には横堀と土塁が築かれている。

 かなり広い城であるが、公園化されているせいもあって、どこまでが往時の遺構か判然としない部分もある。縄張は、天童城などと同じく数多くの曲輪群によって構成された城であり、面白みにはやや乏しい。
本郭北曲輪群に見られる石垣→DSC08058.JPG
DSC08103.JPG←中楯山の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.486265/140.395392/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

PS.本郭北側腰曲輪でカモシカと出くわした。今年2度目。しかも親子連れときた。それにしてもこんな街中に近い山なのに・・・。山形恐るべし。
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