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岩山城(福島県北塩原村) [古城めぐり(福島)]

DSC04058.JPG←曲輪らしき平場、奥は土塁か
 岩山城は、葦名氏家臣の穴沢氏が築いた山城である。穴沢氏は、伊達氏の桧原侵攻に備えて1564年に戸山城を築いたが、翌年伊達氏の奇襲を受けて苦戦し、辛くも落城は免れたものの防備の弱点を痛感して、新たに岩山城を築いたと言う。1584年に葦名盛隆が死去すると、葦名氏は佐竹義重と接近を図った為、家督相続したばかりの伊達政宗は会津侵攻を決意し、同年11月26日、伊達勢約1,500人で奇襲を掛けた。穴沢俊光は岩山城に立て籠もって奮戦したが火攻めにあい、俊光以下自害したと言う。金山も抱える要地桧原を押さえた政宗は、新たに桧原城を築き、更に会津侵攻を推し進めて行き、ついに1589年、摺上原の戦いで葦名氏を滅ぼし、会津を掌中に収めることとなった。しかしその先には、全国統一を目前に控えていた豊臣秀吉が立ちはだかっていたのである。
 岩山城は、現在は堂場山ハイキングコース上にあり、桧原湖底からの比高は100m程である。湖底から、と言うのは、「桧原城 外構え」のところで記載した通り、明治以前は桧原湖は存在しなかったからである。県道64号線からハイキングコースを歩いてしばらく行くと、「岩山城自刃之館跡」という看板の立つ場所に到達する。この道の東側には削平地と奥に土塁らしい高まりが見られ、ここが岩山城であるらしい。その先にも歩いていくが、一旦下ってまた登ったところにまた平場、という感じで、遺構がはっきりしない。それでも3箇所ほどの平場があるようである。ただこれらの平場は削平がやや甘く、また土塁もあまりはっきりした形状ではないようだ。堀切もらしきものはあるがはっきりせず、全体的に「これが城跡?」と思うぐらい消化不良な感じである。
 比高から考えても、その縄張の充実度から考えても、遥かに戸山城の方が充実しており、岩山城が勝るのは平場の広さだけである。なぜ戸山城を破却してこの城に移ったのか、不思議な感じがする。また岩山城は戸山城と異なり20年近くも存続した城だから、もっと本格的な普請がされていても良いのではないかと思う。謎の残る城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.715143/140.051182/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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fuzzy

蘆名氏は会津守護として東北に隆盛を誇っていましたが、伊達政宗に呆気ない程の敗れ方をし、没落を迎えました。佐竹氏の動向も気になる状況下で、政宗の凄さが滲み出た結果でしたね。
by fuzzy (2010-02-21 10:51) 

アテンザ23Z

>fuzzyさん
政宗は、若気の至りもあって、
かなり苛烈な戦い方をしたので、
兵たちからは恨まれたでしょうが、
わずか数年にして強豪蘆名氏を滅ぼしたのは、
さすがと言うほか無いですね。
by アテンザ23Z (2010-02-21 20:34) 

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