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杣山城(福井県南越前町) [古城めぐり(福井)]

IMG_4827.JPG←山麓居館跡と杣山城
(2004年4月訪城)
 杣山城は、太平記に名高い峻険な山城である。金ヶ崎城を落ち延びた新田義貞が拠点としたことで有名である。杣山は昔は北の比叡山と呼ばれ、山頂から麓まで3千の坊があったと言われる。杣山城を築いた瓜生氏は、金ヶ崎城の攻防の際、南朝方に味方して杣山城から後方支援を行ったが、救援の為軍勢を率いて敦賀へ進軍した際、斯波高経率いる北朝方の軍勢に迎撃され、当主瓜生保、弟の義鑑らは討死した。落城前に金ヶ崎城から脱出した新田義貞・脇屋義助は、瓜生一族に迎えられて杣山城に入り、南朝方の残軍を立て直した。その後、越前守護斯波高経と福井平野で足羽七城の戦いと呼ばれる激戦を展開し、高経の拠点、越前府中城を攻略するに至った。しかしその戦いの最中で義貞は討死し、その後は義助が孤軍奮闘するが、衆寡敵せず次第に北朝方に圧迫されて、結局北陸を放棄して美濃を経由して吉野に戻った。以後、南朝軍は北陸から一掃されて、守護の斯波高経の越前支配が成立した。
 室町2代将軍足利義詮の時、高経は管領となった幼い息子義将の後見として幕政を主導した。しかし1366年、貞治の政変で失脚し、京を逃れて杣山城に籠もった。幕府方はこれを包囲したが、そのまま落とすことなく、1年後に高経は杣山城で没した。その後、応仁の乱の最中の1474年には、斯波氏の家老増沢甲斐守祐徳が杣山城に拠って、東軍に寝返った朝倉孝景と戦い、日野川原で敗れた。朝倉氏は河合安芸守宗清を杣山城に入れたが、1574年に織田信長と戦った刀根坂の戦いで宗清は討死し、杣山城は廃城となった。翌年には越前一向一揆が杣山城に拠ったとされるが、詳細は不明のようである。

 杣山城は、比高は380mを超え、非常に厳しい登山を要求される。当時は山城=トレッキングとわかっていなかったので、軽装でろくに飲み物も持たずに登城したので、非常に大変だった。しかしこの山を義貞も登ったのかと思うと、感慨深くもあった。山上の城は古い形態の山城で、要所に堀切や土橋を設けているものの、本格的で大規模な防御構造はほとんどない。一つには、山の峻険さ自体が最大の防御機能だったからだろう。城域は広く、山頂の本丸の他、西御殿・東御殿と呼ばれる曲輪があり、その間にも腰曲輪が連なっている。登城途中には姫穴・殿池・袿掛岩など、城の悲話にまつわる史跡が残っている。一方、山麓には居館跡が残り、数段の広大な平坦地が広がっている。その手前には、往時は百間馬場と家臣団屋敷が広がっていたようである。その入口には二ノ木戸跡があり、その横に水堀が残っている。奥山秀範氏はそのHP「新越前若狭城跡考」の中で、山麓居館のことを「その大きさから守護級クラスのものと想定される」と記載しているが、おそらくその通りであろう。とすれば、越前守護斯波高経の居館があった可能性が高い。それにしても、城自体の遺構は大したものではないが、麓から山上まで遺構が広範囲に残り、その歴史と合わせて、総合的に見て第一級の山城である。
西御殿の櫓台?→IMG_4851.JPG
IMG_4883.JPG←礎石の残る東御殿
二ノ木戸の水堀→IMG_4821.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.802222/136.219697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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