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手子生城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

DSC05783.JPG←本丸周囲の水堀
 手子生(てごまる)城は、正治年間(1199~1201年)に小田氏の祖、八田知家の嫡男知重によって築城されたと言う。慶長(1596~1614年)以前は手子丸城と言い、小田城の支城であった。手子生城は東西南北に縦貫する要路に位置し、小貝川を渡れば結城多賀谷の領内である為、小田氏にとって境域を押さえる重要な布石であったと言う。城主には幾度かの変遷があった様で、建長年間(1249~55年)には菅谷為久が城主であり、その前は豊田為基(豊田城主?)が台豊田上郷にあって、手子生城主を兼ねていたと雄山寺に残る板碑の解説にある。また城主の菅谷氏には、前の菅谷氏と後の菅谷氏があったとも記載されている。1574年、小田氏治父子が土浦城を落ちてから、一時手子生城は多賀谷氏の支配下となり、菅谷左衛門正光が多賀谷正経から手子生城を拝領し近郷を治めた。江戸時代になって菅谷氏が遠州に国替えとなると、幕府旗本堀田大五郎の知行地になり、その居地となったと言う。

 手子生城は、二重の堀を巡らした掻揚の平城で、現在でも一部ではあるが本丸周囲の堀跡が明確に残っている。また堀の横には立派な城址碑が建っている。付近に民家が建つ小規模の平城で、これ程明確に遺構が残る例も珍しい。よく耕作で湮滅しなかったものだと思う。私が訪城した10月中旬には堀跡に水が溜まっていて、往時の水堀の様子が分かりやすかったのは幸運だった。

 尚、上述の手子生城の歴史は、基本的に現地城址碑裏に記載されているものに基づいて記述した為、他の城郭関連のHPに記載のものと異なっている。どちらが正しいのか、ご存知の方がいたらご教示願いたい。それにしてもこの城址碑の解説、見辛くて判読するのにえらい手間が掛かった・・・。折角の解説文なのだから、もう少し見易くして欲しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.105497/140.028498/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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