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海老名館(神奈川県海老名市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09876.JPG←住宅地の一角に立つ記念碑
 海老名氏は、村上源氏の流れを汲む相模中部の豪族である。康平年間(1058~64年)に源四郎親季(有鹿とも言う)が相模守となって坂東に下向し、海老名郷に住んで海老名氏を称した。親季は武勇に優れ、前九年の役の際に源頼義に従って武功を挙げた。後嗣がなかったため、武蔵七党横山党より季兼を養子に迎えた。その子海老名源八季定は武勇天下に名高く、「保元物語」「曽我物語」にその名を伝えられている。この季定の代に海老名氏は大いに勢力を伸ばし、諸子を分封して本間氏、荻野氏、糟屋氏などを輩出した。鎌倉時代に入ると、1213年の和田合戦で縁戚関係にあった和田義盛に加担して敗れ、一時期勢力が衰えた。室町時代に入ると、海老名氏は鎌倉公方足利氏に従い、永享の乱で足利持氏が滅びると海老名尾張守と弟の上野介も捕らえられて自刃し、海老名氏は衰亡した。尚、この永享の乱の中、安房里見氏より援軍として遣わされた大島義金との間に機縁が生じ、義金の子正時と、海老名一族の兵衛尉広治の娘が結婚した。その後広治は、隣の田邑宗友との領地争いで嫡子広信が討死して劣勢に立つと、正時の来援を得て田邑氏を打ち破った。その後間もなく広治は嗣子なく病没したため、大島正時が海老名氏の領地を継承したと言われている(大島豊後守正時屋敷の項参照)。その後の海老名氏の事績は不明である。

 海老名館は、有鹿小学校の南の字御屋敷にあったと言われている。しかし宅地化で遺構は完全に湮滅しており、往時の面影は全く残っていない。しかし館跡近くには海老名氏の記念碑が建ち、館跡の西方にやや離れて海老名氏霊堂が残っている。しかしこの霊廟は、すぐ近くで圏央道の建設が進んでおり、かなり危うい状況にある。数年後には景観がかなり変わってしまっているだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.452350/139.379908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
   (海老名氏記念碑)
タグ:居館
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