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蒲原城(静岡県静岡市清水区) [古城めぐり(静岡)]

DSC09667.JPG←石垣のある腰曲輪
 蒲原城は、駿河の戦国大名今川氏が築いた山城である。城の創築は明確ではなく、鎌倉期から南北朝期にかけて蒲原荘を支配していた在地豪族の蒲原氏(藤原南家流)が築いた城がその前身ともされるが定かではない。歴史上に明確に現れるのは室町期の永享年間(1429~41年)で、今川氏の庶流蒲原氏頼の頃には城が築かれていたらしい。蒲原城は、富士川以東からの敵の侵攻を阻止する支城として重視され、特に戦国時代に入ってからは、今川氏と小田原北条氏の抗争、河東一乱において、北条方の前進基地吉原城に対峙する境目の重要な城となり、城番を置いて守らせた。今川義元が桶狭間で討死し、今川氏の勢力が衰退すると、1568年12月、武田信玄は甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻した。今川氏救援の為、北条勢は駿河に進軍し、蒲原城に入った。北条氏は、一族の北条新三郎(北条幻庵の子)を城将に任じ、城を改修して北条方の駿河の最前線基地として武田氏に備えさせた。しかし1569年12月、三たび駿河に侵攻した信玄は蒲原城に攻めかかり、武田勝頼・信豊らの奮闘により、北条新三郎以下北条方将士を多数討死させて落城させた。以後は武田方の城となり、当地の土豪・地侍らを組織して蒲原衆を編成して守らせた。1582年、徳川勢の攻撃によって落城し、間もなく武田氏は滅亡、以後、徳川方の持ち城となった。1590年の小田原の役の際、東に向かう徳川勢は途次、蒲原城に着陣したが、これを最後に廃城となったと言う。

 蒲原城は、駿河湾に面した蒲原宿北方の標高149mの城山に築かれている。広大な城域を有した城で、山頂の本曲輪と大堀切を挟んで北側に善福寺曲輪があり、これらが城の中枢部に当たる。主郭の南西尾根には数段の平場で構成された二ノ曲輪、更に西側下方に開けた台地上には広い三ノ曲輪が築かれている。一応公園として整備されているが、整備されているのは本曲輪と善福寺曲輪付近だけで、それ以外の二ノ曲輪などはかなりの薮で遺構の確認が容易ではない。三ノ曲輪はミカン畑となっており、道の途中に井戸が残っている。また東名高速を跨いで南西に伸びる尾根がかつての大手筋で、大手の削平地群と竪堀状の大手道が藪の中に確認できる。この他、多数の腰曲輪が築かれ、善福寺曲輪の北側の腰曲輪には、石垣が残っている。城域は広いが、縄張り的にはそれほど技巧性はなく、割と平易な作りに感じられた。しかし歴史的にも重要な城であり、畑などに改変された部分でも遺構がかなり残っているので、整備の手がまだまだ及んでいないことは残念だが、今後の整備に期待したい。
本曲輪の大堀切→DSC09686.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.122892/138.600930/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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