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万喜城(千葉県いすみ市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_7016.JPG←外周を防御する櫓台と堀切
 万喜城は、戦国時代後期に上総に武威を誇った上総土岐氏の居城である。上総土岐氏の出自については諸説あって明確にはできない。土岐氏と言えば、美濃の守護大名が有名で(明智光秀もその一族とされる)、一説には斎藤道三によって領国を奪われた土岐氏の一族が関東に下向し、安房里見氏の知遇を得て夷隅郡に入部し、万喜城を築いたともされる。いずれにしても戦国前期には里見氏勢力の一翼を担っていたが、次第に隙を生じ、1564年の第二次国府台合戦で里見方が大敗すると、時の当主土岐為頼は小田原北条氏からの誘降を容れて北条方に転身した。以後、土岐氏は一貫して北条方として活躍した。為頼の子頼春は武略に優れ、里見氏やその配下の大多喜正木氏、長南武田氏らに度々攻撃されたが、全て跳ね返して勝利を収めた。特に1589年の発坂峠の戦いでは、頼春の巧みな用兵により里見勢に快勝した。しかし1590年に北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入部すると、徳川四天王の一人本多平八郎忠勝に城を攻略され、上総土岐氏も滅亡し、万喜城は廃城となった。

 万喜城は、夷隅川曲流部に張り出した標高70mの城山に築かれた城である。戦国上総で重要な位置を占めた土岐氏の勢威を示す様に、極めて広大な城域を有した城である。主郭周辺は城址公園となっているが、公園化されているのは城域の僅か一部に過ぎない。まず主郭は、倉ノ台と呼ばれる東西に長い曲輪で、背後に土塁と櫓台が築かれ、その前面に広いニノ郭、更にその1段下に三ノ郭が置かれている。ニノ郭と三ノ郭を睥睨するようにマス台と呼ばれる大きな櫓台があり、現在は模擬櫓が建てられている。三ノ郭の西側には、現在駐車場となった曲輪があり、その北側に城山と呼ばれる東西に長い曲輪が高台となって築かれている。以上が公園化されている部分であるが、城域はその数倍の規模で広がっている。前述の主要部の北側斜面に、多くの曲輪群が築かれているが、外周を土塁と櫓台を築いて防御し、その外側は高さ10m以上の垂直絶壁の切岸にして、外側からの登攀を不可能にしている。その途中には堀切を兼ねた切通し状虎口が数ヶ所築かれ、北端には浅間台と呼ばれる大きな櫓台を置いている。この内城地区は、垂直切岸と土塁で谷戸を包み込んで防衛された区画となっている。一方、「城山」の北西斜面には、V字状に分かれた大きな竪堀が穿たれ、上部には櫓台がそびえて堀底を監視している。この竪堀は、朝から掃除をされていた地元の老夫婦に教えて頂いた。「この奥におっきい堀があるよ。そのへんから登れるよ。」ということで、民家にほど近い薮の腰曲輪に遠慮無く突入させていただいた成果である。
 一方、主郭の裏にも絶壁の下に数段の腰曲輪が築かれ、東に伸びた尾根の先に妙見台という出曲輪が築かれ、そこまでの途中にも背後を土塁で囲んだ曲輪があり、背面下方に垂直絶壁切岸と腰曲輪が尾根に沿って連なっている。また主郭から南に伸びた尾根の先にも、派生する支尾根に分岐しつつ、全長1km以上にわたって細尾根の外郭線が伸びている。この外郭線も普請は明らかで、土橋ならぬ石橋があったり、中央を横堀で分割した櫓台、垂直切岸の横堀など、上総でよく見る細尾根城郭に典型的な遺構が見られる。この尾根に沿って、延々と垂直絶壁切岸とその下方の帯曲輪が廻らされている。三島正之氏作図の縄張図で言うと、櫓台Kの先に穿たれた堀切の先は尾根が広くなり、垂直切岸も無くなって普請が甘くなっている。

 万喜城は、緻密な技巧的縄張りは見られないが、外郭線に延々と垂直切岸を構築した大城郭で、最大で20m程もある大切岸はまるで小田原城の大外郭の様であり、千本城の項でも記載した通り、北条氏がこうした上総の築城技術を取り入れて小田原の役に備えたことは、十分考えられる話であろう。万喜城は、上総式細尾根城郭の究極形である。
城山北西のV字竪堀上部→IMG_7092.JPG
IMG_7233.JPG←延々と続く垂直切岸と帯曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.296989/140.326021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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