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白浜城(千葉県南房総市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_1619.JPG←西遺構西部の腰曲輪群
 白浜城は、安房の戦国大名里見氏の最初の居城と言われている。元々は安房四氏の一、丸氏が出城を構えていたと言われる。その後、室町中期~後期の頃に、里見義実がこの地に移って白浜城を築いて居城としたとされる。義実の安房入部の経緯は必ずしも明確ではないが、享徳の大乱の際に、関東管領上杉氏の勢力が占めていた安房を押さえる為に古河公方足利成氏から送り込まれたのが義実であったとする説が有力であるらしい。その後義実は、安房国内の擾乱に乗じて安房一国を平定したとされる。しかしそもそも義実の存在自体が同時代資料で確認できないこともあって、里見氏の勃興については依然として謎が多い。従って白浜城についても謎が多く、戦国前期の里見義豊の時に「白浜」と地名で尊称される人物が在城していたことが知られているのみである。しかし、その広大な城域から考えても、拠点城郭として重要な位置を占めていたことが想像され、その古い形態の縄張りからしても、前期里見氏の拠点城郭であったことは間違いないと考えられている。

 白浜城は、野島崎の北にそびえる標高144mの城山に築かれている。前述の通り広大な城域を有した城で、西遺構・東遺構・城山北遺構に大別され、その範囲は東西1kmにも及ぶ。これらは、曲輪群を多数連ねた中枢部の構造と、江見根古屋城と同様の細尾根城郭の構造を併せ持っている。城の中心は西遺構で、頂部は小規模な物見台状の小郭に過ぎないが、周囲に幾重にも腰曲輪を廻らし、東西両端を切通し状の大堀切で分断している。現在はそこにハイキングコースが整備されているが、往時も城道であったのだろう。西遺構から北に伸びる支尾根は城山北遺構で、細尾根に沿って段曲輪・腰曲輪や物見台が散在し、北端に近い出曲輪の手前には堀切状の虎口と土壇が築かれている。東遺構は冬でも藪がひどくあまり踏査できないが、やはり多数の平場群が築かれ、東端部は切通し状の堀切となっている。全体にあまり技巧性はなく、求心性も乏しい縄張りで、外来者である里見氏の立場を物語っているようにも思える。
 尚、この山には城山縦走路が完備されており、東遺構や派生する支尾根の遺構以外はハイキング気分で簡単に踏査することができる。
西端部の切通し状の大堀切→IMG_1606.JPG
IMG_1649.JPG←支尾根に築かれた段曲輪
北端部の出曲輪と堀切状虎口→IMG_1665.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.912916/139.890638/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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