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土浦城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1089.JPG←本丸の水堀と東櫓
 土浦城は、小田城主小田氏の支城であった平城である。元々は、永享年間(1429~41年)に当地の土豪若泉三郎が築いたと言われている。戦国時代に入ると、1516年に小田氏の部将菅谷勝貞が土浦城を攻め取り、一時期小田氏家臣の信太範貞が城主を務めた以外は、菅谷氏の歴代の居城となった。菅谷氏は、勝貞・正貞・範政と3代に渡って斜陽の小田氏を支えた武将で、小田氏治は小田城を失陥する度に菅谷氏を頼って土浦城に逃れ、反撃して奪還していたが、1569年に手這坂合戦で真壁勢に大敗して小田城も攻略されると、もはや再び奪還することはできなかった。以後氏治は、土浦城・木田余城に入っていたが、1570年以降は佐竹氏の攻撃を直接受けるようになり、1583年、遂に佐竹氏の軍門に降った。1590年に小田原北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に入部し、土浦城は結城城主結城秀康(家康の次男)の支配下に置いた。関ヶ原合戦後は、松平信一が土浦城主となり、以後、西尾氏・朽木氏を経て幕府重臣土屋氏の居城となって幕末まで存続した。
 尚、土屋氏は元甲斐武田氏の旧臣で、1582年に武田勝頼が天目山で滅亡した際、藤蔓に掴まりながら片手で迫り来る織田勢の兵を斬りまくって勝頼自刃の時を稼いだと言う「片手千人切」で有名な土屋惣蔵の後裔である。

 土浦城は、霞ヶ浦の水運を押さえる要地に築かれた環郭式の平城である。関東の要衝を押さえるため徳川幕府の重臣土屋氏が置かれたが、関東の平城の命運に違わず、市街化の中に埋没して遺構は改変が進み、まともな城郭遺構は本丸周辺以外はほとんど残っていない。本丸・ニノ丸は亀城公園となっているが、ここも改変が多くわずかに土塁と水堀を残す他、現存建築物である大手櫓門や東櫓が残っているぐらいである。この他では、浄真寺や神龍寺、東光寺に土塁が残る程度である。しかし町中の至る所に標柱が建っており、それのみが救いである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.084968/140.198261/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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