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車城(茨城県北茨城市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4961.JPG←主郭背後の急峻な切岸
 車城は、佐竹氏と岩城氏の間で争奪戦が行われた城である。元々は、鎌倉末期に臼庭加賀守が居城したと言われ、室町時代の天授年間(1375~80年)には岩崎二階堂氏の庶流砥上氏がこの地に拠って車氏を称したとされる。車氏は、但馬守忠員及び子の兵衛蔵人通忠などが3代にわたって居城し、佐竹氏に属した。室町後期の1485年、佐竹氏一族の内訌「山入の乱」で佐竹氏の勢力が減退した隙を突いて、岩城常隆は車城を攻め落とし、城主は討死した。その後は常隆の弟好間上総介隆景が車城に入り、車氏を称した(岩城系車氏)。以後車城は岩城氏の南進拠点となった。戦国末期の1583年、佐竹義重は北常陸に侵攻し、車城を攻め落として、城主車兵部大輔義秀は佐竹氏に降った。義秀の子車丹波守斯忠は猛将として知られ、1585年に伊達政宗と戦った人取橋の合戦では、政宗の本陣に切り込んだと伝えられている。斯忠は、佐竹氏が江戸氏を滅ぼすと、吉田城を与えられた。豊臣政権下では佐竹家中の反徳川の急先鋒で、関ヶ原合戦の後、佐竹氏は秋田に移封となったが、斯忠はこの処置に反発して常陸に残り、水戸城奪還を企てて失敗し、処刑されたと言う。尚、車城は、佐竹氏の秋田移封の際に廃城となった。

 車城は、花園川の支流根古屋川東岸にそびえる、標高63m、比高50m程の城である。佐竹氏と岩城氏の争奪の場となっただけあって、中々規模の大きい山城である。基本的には南北に曲輪を連ね、要所を掘切で分断した連郭式の縄張りで、主郭の背後と、周りに派生する尾根に舌状の曲輪を廻らして防御を固めている。八幡神社の鎮座する主郭周囲の切岸は規模が大きく、高さ10mを超える急峻なもので、周囲からの登攀は困難である。主郭の南には、井戸のある掘切を挟んで細長く伸びたニノ郭があり、その先も中規模の掘切と3つ程の曲輪群が連なり、枡形虎口などが構築されている。車城は、掘切は大きく普請の規模も大きいが、技巧的な部分は少なく、主郭背後の尾根の防御も割りと大雑把である。南麓から神社までの参道が整備されており、苦労せずに登れ、12月下旬に行った際には季節外れの紅葉が美しかった。しかし主郭以外は藪が多く未整備なのが残念である。
南部の曲輪群の枡形虎口→IMG_4906.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.816998,140.726731&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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