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府中城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7721.JPG←外郭の切岸と堀跡の道路
(2015年7月訪城)
 府中城は、常陸の名族大掾氏歴代の居城である。大掾氏は、平将門の伯父平国香が常陸国の大掾となって土着し、その子貞盛は天慶の乱の際に従兄弟の平将門を討って大功を挙げ、その後裔は代々常陸大掾職を世襲したため、役職名を家門の名とした。大掾氏は、吉田・豊田・行方・鹿島・真壁・東条・下妻・小栗の八支族を中心とする多くの庶家を輩出し、常陸南部に勢力を扶植した。南北朝時代には、大掾高幹は当初南朝方として活動したが、後に北朝方に転じ、1341年の幕将高師冬による小田城攻撃の際には、高幹は南朝方の志筑城を攻撃している。その後高幹は、家督と大掾職を嫡男文幹(詮国)に譲って水戸に隠居した。文幹は、将軍足利義詮より一字を賜り、詮国と名を改めた。府中城は、この大掾氏惣領の詮国によって、1346年から5年の歳月を掛けて、かつての常陸国府の地に築かれ、以後代々の居城となった。また鎌倉府から、佐竹氏・宇都宮氏らと並んで関東八屋形に列せられ、古豪として勢威を誇った。しかし1416年の上杉禅秀の乱では、大掾満幹は禅秀方に付いて敗北した。その結果、居館の水戸城を含む水戸地方は、鎌倉公方方として活躍した江戸氏に与えられたが、満幹は水戸城の引き渡しを拒否して居座っていた。1426年、満幹が「青屋祭」執行の為、一族・重臣を連れて府中城に赴くと、この不在の隙を突いて、河和田城主江戸通房は水戸城を奪取した。1429年には、大掾満幹父子は鎌倉雪の下において足利持氏によって殺害され、大掾氏家中は大きく動揺した。戦国時代に入ると江戸氏や小田氏との抗争が激しく繰り返され、それへの対抗上、大掾貞国は南進する佐竹氏に従った。1573年、大掾氏と小川城主園部氏が対立すると、江戸・佐竹両氏は園部氏を救援し、この機に乗じて小田氏治が貞国の弟常春が守る三村城を攻略し、大掾氏は府中城南の防衛拠点を失った。その後、天正年間(1573~92年)には度々府中城が江戸氏の攻撃を受けた。1590年の小田原の役では、大掾氏は豊臣秀吉の元に参陣せず、役後に常陸一国が佐竹義宣に与えられると、同年12月に佐竹勢によって府中城は攻略され、大掾清幹は自刃して平安以来の名族大掾氏は滅亡した。義宣は、叔父の義尚を府中城主としたが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、出羽六郷から六郷政乗が1万石で入封し、1700年には徳川光圀の弟松平播磨守頼隆が2万石で封じられ、陣屋を築いて幕末まで存続した。

 府中城は、恋瀬川北岸の比高20m程の段丘上に築かれている。半島状に張り出した台地先端に主郭を置き、町屋が広がる基部の台地との接続部にニノ郭、町屋の台地内に三ノ郭・外郭を配した縄張りとなっている。しかし城内は市街化により改変が進み、遺構の湮滅が激しい。しかし地勢はよく残っており、歩いて回ると城の名残がよく分かる。主郭は住宅団地になっているが、周囲は急峻な崖で囲まれ、ニノ郭との間の掘切の南半分だけが僅かに残っている。二ノ郭と三ノ郭との間の掘切は、ほとんど湮滅しているが、北半は窪地状の地形として名残を残している。三ノ郭はほとんどが石岡小学校の敷地になっているが、北東部に土塁が残っている。外郭はほぼ湮滅しているが、外周の切岸やその周囲の堀跡が道路となって残っている。思ったよりは往時の地形を残しているので、標柱等がもっと整備されればと、石岡市の取組みの少なさには少々残念に感じられる。
三ノ郭の土塁→IMG_7767.JPG
IMG_7794.JPG←主郭の掘切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.189412,140.265241&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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