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小堤城(宮城県亘理町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2322.JPG←東側の土塁
 小堤城は、この地の豪族亘理氏の歴代の居城である。亘理氏は、下総の名族千葉氏の庶流武石氏の後裔で、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の戦功により、千葉常胤に陸奥国諸郡の地頭職が与えられ、常胤は6人の息子達にこれらを分与した。常胤の3男三郎胤盛が武石氏の始祖で、その後1302年に武石宗胤が亘理の地に下向して亘理氏の祖となった。南北朝時代には、亘理氏は陸奥国司・鎮守府大将軍として国府多賀城に下向した北畠顕家に従って南朝方として活動したが、南朝方が逼塞すると北朝方に転じた。この南北朝期の広胤の代に、亘理氏を称したとされる。小堤城がいつ築かれたかは定かではないが、この頃には亘理氏の居城となったものだろう。その後亘理氏は、周辺諸豪と抗争して勢力を競ったが、伊達氏の勢力が伸長すると、伊達氏に従属した。亘理宗隆の時、嗣子がなかった為、伊達稙宗の子綱宗を養子とし、綱宗が天文の乱で討死すると、その弟元宗を改めて養嗣子とした。こうして伊達氏の親族となって、伊達宗家を支えて度々戦功を挙げた。天正年間(1573~92年)には、元宗・重宗父子が伊達氏の命で相馬氏と度々戦ったが、この頃には居城をより要害性の高い亘理城(後の亘理要害)に移したと考えられている。1591年に伊達政宗が岩出山に移封となると、亘理氏は遠田郡の百々城に移り、間もなく涌谷城に移った。以後、伊達氏一門として涌谷伊達氏となって幕末まで存続した。

 小堤城は、亘理要害の南西のなだらかな丘陵地に築かれた平城である。現在は大雄寺となっており、城跡というより境内にある伊達成実を祖とする亘理伊達氏の歴代の廟所の方が有名である。寺域となって改変を受けているが南半の土塁は残っており、最大で高さ3m程ある。亘理伊達氏の廟所は、南面の土塁上に建てられている。外周には堀もあったと思われるが、現在では耕地化で湮滅している。現在の遺構から見る限り、小堤城はおそらく方形居館であったのだろう。土塁以外に城跡らしさは残っていないが、亘理伊達氏の廟所をお参りに行くだけでも十分価値がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=38.027997,140.845606&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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