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相賀城(茨城県行方市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0387.JPG←主郭周囲の屈曲する横堀
 相賀城は、相賀氏の居城である。現地解説板によれば、平安末期に逢賀太郎親幹が築いた城で、この頃は「逢賀城」と呼ばれていたらしい。逢賀氏の出自は手元に文献がなく不明であるが、「幹」の一字を名前に有することから、鹿行地方の諸豪と同様に大掾氏の一流であったのだろう。その後の事績は不明で、戦国期には手賀左近尉義元(相賀入道)が再建して、相賀城と呼ぶようになったと言うことから、逢賀氏は一時断絶したものらしい。一方、義元は手賀氏の一族であろうから、手賀氏の本家に当たる玉造氏による南方進出策でこの地に入部したものであろうか。その後、相賀入道の婿の彦四郎は、小高氏の軍勢と戦って討死したと言う。相賀城最後の城主手賀三郎四郎は佐竹氏に攻められ滅亡したと言われているが、『和光院過去帳』に記載された「南方三十三館の仕置」で常陸太田城に誘殺された16名の中に「アウカ殿」とあることから、当時は「相賀殿」と呼ばれており、太田城で殺された様である。誘殺の後、直ちに佐竹義宣は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした。相賀城で戦闘があったかどうかは不明であるが、いずれにしても城主なき城では佐竹氏の圧倒的な軍事力に対抗できるはずもなく、程なく制圧されたのだろう。以後、廃城となったと思われる。

 相賀城は、雁通川の北浦流入点の北に位置する比高30m程の丘陵上に築かれた城である。連郭式を基本とした縄張りで、南端から順に主郭、二ノ郭、繋ぎ小郭、三ノ郭、四ノ郭、外郭と連なっている。この中で防備が最も厳重なのが主郭で、現在八幡神社が建っているが、その後ろに土塁が築かれ、南東面には腰曲輪、それ以外の三方は横堀で防御している。横堀は中々複雑な構造で、斜面を昇り降りしながら幾重にも屈曲させ、途中には竪堀まで落としている。主郭背後は堀切を介して二ノ郭がある。二ノ郭は両サイドに腰曲輪を設け、特に南東面のものは数本の竪堀を落としている。二ノ郭背後の堀切は南東に竪堀が長く落ち、それに沿って竪土塁も築かれている。その次の繋ぎ小郭は北西面の長い土壇とその下の平場の2段に分かれているが、土壇には中間に小堀切が穿たれ、側方には竪堀が落ちている。繋ぎ小郭と三ノ郭の間も堀切で分断されている。三ノ郭は東角に土壇があり、南東斜面には塹壕状の帯曲輪が構築されている。三ノ郭と四ノ郭の間も長い堀切で分断されているが、後世の改変でだいぶ埋められてしまっている。しかし南東に落ちる竪堀は往時のままである。四ノ郭は広大な曲輪で、有事の際に城下の民衆を収容したのかもしれない。現在は全域が耕地化され、ここに解説板が建っている。更に北に外郭があるが、四ノ郭との間は自然地形がそのまま堀切的な役目を担っている。外郭も畑に変貌しているが、東面に腰曲輪らしい段や横堀状の地形が見られる。以上のように、堀切と竪堀を多用した城であるが、それほど技巧的という感じはなく、縄張り的に少々中途半端といった印象を受けた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.018507/140.535929/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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