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甲山城(石川県穴水町) [古城めぐり(石川)]

IMG_7675.JPG←主郭切岸と空堀
 甲山城は、能登に侵攻した上杉勢が占拠した城である。天正年間(1573~92年)の始め、平楽(たいらく)右衛門尉が居城したと伝えられるが、一説には越後の平子(たいらく)氏の誤伝とも言われる。1576年、上杉謙信は能登に侵攻して七尾城を攻めたが容易に落ちず、長期攻囲戦のため能登一円の城を占領して部将を配置した。甲山城も上杉勢に攻略され、上杉氏家臣の轡田肥後・平子和泉・唐人式部が城将として配された。1578年には、長連龍の穴水城奪回戦の際、穴水城を守る越後勢を救援するため、上杉方の管轄下にあった棚木・甲山両城から加勢の軍兵が船で穴水城に向かったと言う。謙信の急死後、上杉氏が弱体化すると、1579年に温井景隆・三宅長盛らが甲山城に攻め寄せ、城は落城し、轡田氏らは攻め滅ぼされた。その後甲山城は温井氏の管理下に置かれた。1580年、前田利家が能登を領すると、甲山城はその支配下になった。

 甲山城は、甲港の入江に面した標高約20mの丘陵の東端部に築かれている。城のすぐ南を県道34号線が通っており、県道脇の山林に足を踏み入れるとすぐに外郭の空堀が目の前に横たわっている。城域の北東角に土塁と空堀で台地と分断された主郭を置き、その周囲も曲輪としている。主郭は南辺に横矢のクランクを設けている。主郭周囲の曲輪は、いくつかの曲輪に分かれていたと思われるが、前述の県道脇の空堀が途中で埋まっており、その形状を明確に知ることはできない。そこでここでは一括して「外郭」と総称する。外郭の南から西にかけて空堀が残っており、西側はかなり埋もれて浅くなっているが、南のものはしっかりと残っており、横矢掛りの屈曲も明確である。この空堀は南中央のクランク部から北側にも分岐して伸び、ここにも横矢のクランクが設けられている。この他、北西部に櫓台を備えた空堀があり、虎口であったと推測されているようだが、薮がひどくて形状があまり明瞭には確認できなかった。甲山城は、この地域では珍しい、横矢掛りを多用した崖端城で貴重である。しかし残念ながら、城内は薮が多く歩きにくく、遺構の確認も少々骨が折れる。
外郭空堀のクランク→IMG_7703.JPG
IMG_7716.JPG←北西虎口の櫓台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.203569/137.025239/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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