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飯田城(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]

IMG_8039a.JPG←北西斜面の畝状竪堀
 飯田城は、飯田氏の城と言われている。天正年間(1573~92年)の城主の名として、飯田与三右衛門長家の名が伝わっている。飯田氏は、この地を領した土豪であったとも、越後の飯田与七郎の同族とも言われる。いずれにしても1577年に上杉謙信が能登を制圧すると、正院川尻城に入った上杉氏家臣長景連に属した。しかし翌78年に謙信が急死して上杉氏の勢力が減退すると、1579年には織田信長の勢力が能登を圧し、温井景隆・三宅長盛らによって七尾城将鯵坂長実が追放されると、能登各地の上杉氏勢力は駆逐されていった。この中で飯田城も落城して、長家は越後へ逃れたと考えられている。

 飯田城は、飯田港の北に位置する標高40m程の丘陵上に築かれている。東麓に津波避難階段があり、以前はそこから城に登れたらしいが、現在は鍵で閉鎖されている。地元の方の話では、山の地主さんが倒木などで危ないからと使用を断ったとのことである。結局登り口がわからず、西側の斜面を薮をかき分けて直登した。主郭は頂部にあるが、大きな長円形の平場の中に高台となった方形の2郭を並べる珍しい形で、これら全体を主郭と見做している人も多いが、私は中央の2郭の内、南側の高い方を主郭、北側の低い方をニノ郭、その周りを取り巻いている平場をこれらの腰曲輪と解釈した。主郭とニノ郭の間は、広幅で浅い堀切を設けて区画している。堀切の南側は窪地になっており、虎口があった様である。これら城の中心部下方の西から北を巡って東にかけて、延々と腰曲輪が築かれている。この腰曲輪には北西部と東部に比較的大型の畝状竪堀が築かれている。この畝状竪堀は、上杉氏支配時代に構築されたものと推測されている。また城中心部の南東には、切岸の下に三ノ郭がある。三ノ郭は、南北に連なる3つの平場で構成され、これらは段差で区切られ、真ん中の平場が一番高くなっている。三ノ郭には前述の東側の腰曲輪と城道が通じている。三ノ郭の南には小堀切が穿たれ、その先に伸びる尾根筋にも曲輪群と、堀切が穿たれている。この堀切は鋭さがあり、中央に土橋を架け、内側に土塁が築かれて防御性を向上させている。一方、城中心部の北は腰曲輪がそのまま堀切に変化し、その北に物見台の様な北出曲輪が構築されている。この他、南尾根の西側の谷筋にも曲輪群があるらしいが、薮がひどかったので未確認である。飯田城は、萩城よりは規模が大きいが、やはり比較的少数の兵で守れる様に畝状竪堀で防御性を増した城である。
二ノ郭から見た堀切と主郭→IMG_8014.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.439395/137.261617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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