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姉川古戦場(滋賀県長浜市) [その他の史跡巡り]

IMG_8790.JPG←古戦場碑
(2019年12月訪問)
 姉川古戦場は、浅井・朝倉連合軍を織田・徳川連合軍が破った戦いである。1570年4月、越前の朝倉義景討伐のため、敦賀に侵攻した織田信長は、金ヶ崎城に入ったところで義弟浅井長政の離反を知り、南北より挟撃される危地に陥った。急遽京に向けて逃げ帰り、辛くも虎口を脱した信長は、同年6月に裏切った長政を討つべく、北近江に侵攻した。一方、朝倉氏は一族の朝倉景健を大将とする援軍を派遣した。こうして6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が姉川の両岸に布陣し、激戦が行われた。旧陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』によれば、兵数は浅井軍8000、朝倉軍10000に対して、織田軍23000、徳川軍6000で、合戦は午前5時に始まり午後2時に終わったとされている。戦端は、西方に布陣した朝倉・徳川両軍の間で始まり、最初は朝倉勢が優勢であったが、榊原康政らが側面から朝倉勢を攻撃し、形勢は逆転した。一方、浅井・織田両軍の間でも戦闘が開始され、最初は浅井勢が優勢であったが、西美濃三人衆の側面攻撃や徳川勢の加勢により、浅井勢も敗退したと言う。しかし一説には、浅井勢による奇襲攻撃であったとも言われる。いずれにしても合戦後、信長は浅井方の重要拠点横山城を攻略し、虎御前山城に本陣を置いて執拗に浅井攻撃を続けた。

 姉川古戦場は、長浜市街地の東方にある。国道365号線の付近に関連史跡が多数散在し、史跡看板が建てられている。中心となるのが姉川北岸にある古戦場碑である。南には、陣杭の柳と言う名の織田信長本陣跡や、勝山という独立丘陵に徳川家康本陣跡がある。この一帯からは、北方に浅井氏の居城小谷城が遠望でき、浅井氏のお膝元で行われた戦いであったことがわかる。浅井氏は、朝倉氏の援軍がないと、独力では全く織田勢に対抗できないことや、本拠地近くが主戦場となるなど、浅井長政の信長からの離反には大局が見えていなかったというしかない。何しろ織田勢は、小谷城近くで農村を荒らし回るだけで浅井氏の領国を荒廃させ疲弊させられたのだから。姉川の合戦も真夏の戦いで、どれほどの稲穂が蹂躙されたことか。いくら信長包囲網があったとはいえ、浅井氏の抵抗には限界があっただろう。最初から本拠地近くが主戦場になっていた時点で、浅井氏の命運は決していたという他はない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.416020/136.322168/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:古戦場
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