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佐和山城(滋賀県彦根市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_8958.JPG←天守台跡らしい本丸の高台
(2019年12月訪城)
 佐和山城は、石田三成の居城として有名である。最初の築城は、鎌倉時代初期の建久年間(1190~99年)に近江守護・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の6男佐保時綱が築いた砦が始まりとされる。室町時代には、近江の守護大名六角氏の支城となり、大永年間(1521~28年)には六角定頼の家臣小川左近大輔が城主となった。その後江北を支配した京極氏の家臣小谷氏が台頭すると、勢力を拡張して佐和山城を支配下に収め、浅井氏の家臣磯野員昌が城主となった。元亀年間(1570~73年)に浅井長政が織田信長と敵対すると、佐和山城は織田勢に包囲され、1571年2月に無血開城した。信長は、本拠の岐阜城から京へのルートを確保するため、重臣の丹羽長秀を佐和山城主とした。1582年、本能寺の変後に清州会議を経て、堀秀政が佐和山城に入った。堀氏時代には賤ヶ岳合戦・小牧長久手合戦などの際に羽柴秀吉が佐和山に陣を置いた。1585年、佐和山城には秀吉の家臣堀尾吉晴が4万石で入城した。1590年に堀尾氏が浜松城に移封となると、豊臣氏の直轄時代を経て石田三成の居城となった。石田時代の佐和山城は、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われる程の名城であったとされる。1600年の関ヶ原合戦で石田三成の西軍が敗れると、佐和山城は東軍諸将に攻略された。その後は、徳川家康の重臣井伊直政が城主となったが、直政は関ヶ原での戦傷が元で間もなく没し、その嫡男直勝が1603年に家康の命で彦根城を新たに築城すると、佐和山城の部材・石材は大々的に転用され、そのまま佐和山城は廃城となった。

 佐和山城は、標高232.6m、比高130m程の山上に築かれている。本丸周辺と西の丸は整備されており、北西麓の龍潭寺からと南の国道8号線脇からの2つの登路が整備されている。山頂の本丸を中心に、北東尾根に二の丸、その東に三の丸、また本丸北西には西の丸、南には太鼓丸と法華丸といった曲輪群を配している。縄張り的には純然たる中世山城と同じで、尾根筋に堀切や竪堀を穿ち、尾根に配された曲輪の先端には腰曲輪群を築いている。また西の丸や太鼓丸には土塁が残り、腰曲輪などに通じる虎口も見られる。本丸は綺麗に整備されており、眼下には彦根城がよく見えるが、破城のせいで石垣もほとんど残っておらず、天守台や桝形虎口の跡などもわずかに痕跡が残る程度で、見るべき遺構がかなり少ない状態である。また二の丸は大薮が酷く、本丸への登城路も消失していて、踏査が容易ではない。何とか平場群とわずかな残存西垣は確認できたものの、薮が酷すぎて三の丸には到達できなかった。この他、大手のあった東麓の平地には、大手口の土塁や内堀跡・外堀跡の小川が残っている。これほど有名で、そうそうたる面々が城主となった重要な城であったが、徳川による徹底的な破却のせいで近世城郭とは思えないほど見るべきものが少ない状況で残念である。
西の丸下段郭(焔硝櫓)の土塁→IMG_9007.JPG
IMG_8877.JPG←太鼓丸の土塁
二の丸付近の残存石垣→IMG_9044.JPG
IMG_8829.JPG←大手口の土塁・内堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.279714/136.269232/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


【図解】近畿の城郭II

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