中尾城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]
←西から見た城跡付近
(2020年7月訪城)
中尾城は、中尾塁とも呼ばれ、天正壬午の乱の際に北条方に利用されたと推測される城である。伝承では、古くは武田信光の居城と伝えられ、武田信玄の時代には小幡山城守虎盛の子主計頭又兵衛が軍功によって中尾城を賜ったと言う。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。信濃から南下して甲斐に入った北条氏直の大軍は、若神子城に本陣を置き、新府城に進出した徳川家康の軍勢と対峙した。この時、塩川沿いに位置する中尾城は、佐久往還を押さえる要衝であり、北条方の若神子城、大豆生田砦、獅子吼城を繋ぐ役割を果たしていた。大豆生田砦が徳川勢に奪われた後、江草小屋(獅子吼城)も失陥すると、中尾城は徳川方に囲まれて完全に孤立することとなった。その後、真田昌幸の離反によって窮地に陥った北条氏は、徳川氏と和睦して乱が終結した。この時中尾城も、その役目を終えたと見られる。
中尾城は、塩川と須玉川に挟まれた台地上に築かれている。現在は工場敷地や耕地に変貌しており、明確な遺構は残っていない。工場北側の車道脇に解説板が立っているが、中尾城と書いてある以外は字が全く消えていて読めなくなってしまっている。しかし西の平地から城跡付近を望むと高台にあることがよくわかり、城地として優れていたことがうかがえる。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.801612/138.436017/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2020年7月訪城)
中尾城は、中尾塁とも呼ばれ、天正壬午の乱の際に北条方に利用されたと推測される城である。伝承では、古くは武田信光の居城と伝えられ、武田信玄の時代には小幡山城守虎盛の子主計頭又兵衛が軍功によって中尾城を賜ったと言う。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。信濃から南下して甲斐に入った北条氏直の大軍は、若神子城に本陣を置き、新府城に進出した徳川家康の軍勢と対峙した。この時、塩川沿いに位置する中尾城は、佐久往還を押さえる要衝であり、北条方の若神子城、大豆生田砦、獅子吼城を繋ぐ役割を果たしていた。大豆生田砦が徳川勢に奪われた後、江草小屋(獅子吼城)も失陥すると、中尾城は徳川方に囲まれて完全に孤立することとなった。その後、真田昌幸の離反によって窮地に陥った北条氏は、徳川氏と和睦して乱が終結した。この時中尾城も、その役目を終えたと見られる。
中尾城は、塩川と須玉川に挟まれた台地上に築かれている。現在は工場敷地や耕地に変貌しており、明確な遺構は残っていない。工場北側の車道脇に解説板が立っているが、中尾城と書いてある以外は字が全く消えていて読めなくなってしまっている。しかし西の平地から城跡付近を望むと高台にあることがよくわかり、城地として優れていたことがうかがえる。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.801612/138.436017/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平山城
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