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浄古寺城(山梨県山梨市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN1642.JPG←主郭周囲の堀跡
(2020年7月訪城)
 浄古寺城は、中牧城とも呼ばれ、甲斐併合後に徳川氏が改修した城である。伝承では、最初は安田義定の居館であったものを、弘安年間(1278~88年)に二階堂氏が修築したとするが、確証はない。1548年、武田信玄が雁坂口の守備のため大村氏に命じて築城し、以後大村加賀守・伊賀守が城代となった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後に生起した天正壬午の乱では、大村氏は北条方に付いて大野砦を守ったが、徳川勢に急襲され、中牧表で一族の大方が敗死し、滅亡した。その後、徳川・北条両家の間で和睦が成り、甲斐が徳川領となると、1589年に家康の命でその家臣内藤三左衛門信成が大修築して城代となった。この修築の際、元ここにあった夢想国師開創の城居寺を移転したと言う。1590年に北条氏が滅亡し、徳川氏が関東に移封となると、廃城となったと言う。

 浄古寺城は、小楢山南東の裾野が河川に削り残された丘陵上に築かれている。周囲より高い位置に築かれた本丸を中心に、環郭式に曲輪を配置した縄張りとなっている。城内は、一部が宅地や神社、ほとんどがぶどう畑となっているが、城の形状は概ねよく残っている。本丸は北西部にL字に土塁を築き、角部に天守台、南端に櫓台を置いていたと考えられている。本丸の北から西にかけては空堀が廻らされ、低地の畑となって形を残している。本丸の北西には5の曲輪が置かれ、ここにも北西部にL字の土塁が築かれている。角部は櫓台であったらしい。5の曲輪の北側は堀切になっている。本丸の西には4の曲輪、東は斜面に築かれた腰曲輪群となっている。本丸の南には二ノ丸が配置され、南東部のぶどう畑の中に横堀が残っている。西辺には土塁も残っている。二ノ丸に入る所で、北から登ってくる小道が折れ曲がっており、虎口の跡であることが明瞭である。その南には三ノ丸があるが、一面のぶどう畑で形状はよくわからない。この他、二ノ丸全体を睥睨する八幡神社の背後に、天守台の礎石が残っている。改変されているものの、ほぼ城の縄張りを追うことができる良好な城跡であるが、夏場だとぶどう畑の葉が生い茂っていて、地形の確認が難しい部分も多いのが少々難である。
神社裏に残る天守台礎石→DSCN1743.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.745485/138.710557/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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