二塚城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]
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二塚城は、鎌倉末期に執権北条氏の一族、名越氏が築いた城である。1333年5月、越中守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公(ありとも)・甥の兵庫助貞持らは、出羽・越後の宮方が北陸道を経て京都に攻め入ろうとしていると聞き、二塚に陣を構えて能登・越中の軍勢を催してこれを防ごうとした。しかし鎌倉幕府から離反した足利高氏(後の尊氏)の攻撃で京都六波羅は陥落し、東国でも新田義貞が挙兵したなどの風聞が伝わり、兵は守護方から離反して大軍で攻め寄せようとした。時有らわずかに残った守護方の一族・譜代の79人は放生津城に逃れ、5月17日に全員城を枕に自刃したと言う(『太平記』第11巻)。
尚、元弘の変で捕らえられた後醍醐天皇が1332年に隠岐に流された際、二塚には後醍醐天皇の皇子とされる恒性皇子が配流された。翌年、後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山に立て籠もり、再び倒幕の狼煙を上げると、皇子が宮方に担がれることを恐れた幕府の命で、名越時有によって皇子は殺害された。皇子の陵墓が二塚城の近くに残っている。またこの時、皇子に随従していた日野直通・勧修寺家重・近衛宗康ら侍臣3人も殺されて晒し首となり、「三ヶ首」の地名として残っている。
二塚城は、庄川西岸の平地に築かれていたが、遺構は完全に湮滅している。現在は県道57号線の高架の南に石碑が残っているだけである。そこには「太刀城」と刻まれている。石碑には解説文はなく、解説板も立てられていないのが残念である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.716509/137.014199/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
二塚城は、鎌倉末期に執権北条氏の一族、名越氏が築いた城である。1333年5月、越中守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公(ありとも)・甥の兵庫助貞持らは、出羽・越後の宮方が北陸道を経て京都に攻め入ろうとしていると聞き、二塚に陣を構えて能登・越中の軍勢を催してこれを防ごうとした。しかし鎌倉幕府から離反した足利高氏(後の尊氏)の攻撃で京都六波羅は陥落し、東国でも新田義貞が挙兵したなどの風聞が伝わり、兵は守護方から離反して大軍で攻め寄せようとした。時有らわずかに残った守護方の一族・譜代の79人は放生津城に逃れ、5月17日に全員城を枕に自刃したと言う(『太平記』第11巻)。
尚、元弘の変で捕らえられた後醍醐天皇が1332年に隠岐に流された際、二塚には後醍醐天皇の皇子とされる恒性皇子が配流された。翌年、後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山に立て籠もり、再び倒幕の狼煙を上げると、皇子が宮方に担がれることを恐れた幕府の命で、名越時有によって皇子は殺害された。皇子の陵墓が二塚城の近くに残っている。またこの時、皇子に随従していた日野直通・勧修寺家重・近衛宗康ら侍臣3人も殺されて晒し首となり、「三ヶ首」の地名として残っている。
二塚城は、庄川西岸の平地に築かれていたが、遺構は完全に湮滅している。現在は県道57号線の高架の南に石碑が残っているだけである。そこには「太刀城」と刻まれている。石碑には解説文はなく、解説板も立てられていないのが残念である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.716509/137.014199/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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