武藤三河守屋敷(山梨県南アルプス市) [古城めぐり(山梨)]
←屋敷付近の阿弥陀寺
武藤三河守は、武田氏の家臣で親類衆であった。戦国時代に上野城主大井信達の子三郎左衛門尉信堯(武田信玄の生母大井夫人の実弟、即ち信玄の叔父)が、絶えていた武藤家の名跡を許されたことに始まるとされる。信堯は優れた歌人としても知られたが、1550年の砥石崩れ(武田勢が村上義清の支城であった信濃砥石城を攻撃して大敗した戦い)の際に討死した。その後、信堯の子竹千代丸が跡を継いだらしいが、夭折したため、武藤家の名跡は真田幸隆の3男昌幸が入嗣して継ぎ、武藤喜兵衛尉を称した。しかし1575年の長篠合戦で、真田氏の長男信綱、次男昌輝が討死したため、昌幸は真田家に戻って跡を継いだ。昌幸は智謀の将で、後年、上田城で徳川の大軍を二度にわたって破ったことは広く知られている通りである。昌幸の後に武藤家を継いだのが武藤三河守で、武田氏の奉行を勤めたと言う。
武藤三河守屋敷は、阿弥陀寺付近にあったと考えられている。阿弥陀寺は、武藤三河守が甲斐源氏加賀美遠光の崇敬した阿弥陀堂を整備したものと言われ、武藤氏の菩提寺であった。武藤家に入った若き日の昌幸も、この地に居住していた可能性は高いとされる。現在は宅地化で遺構は残っていないが、武藤家の所縁を伝える解説板が立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.583731/138.465157/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
武藤三河守は、武田氏の家臣で親類衆であった。戦国時代に上野城主大井信達の子三郎左衛門尉信堯(武田信玄の生母大井夫人の実弟、即ち信玄の叔父)が、絶えていた武藤家の名跡を許されたことに始まるとされる。信堯は優れた歌人としても知られたが、1550年の砥石崩れ(武田勢が村上義清の支城であった信濃砥石城を攻撃して大敗した戦い)の際に討死した。その後、信堯の子竹千代丸が跡を継いだらしいが、夭折したため、武藤家の名跡は真田幸隆の3男昌幸が入嗣して継ぎ、武藤喜兵衛尉を称した。しかし1575年の長篠合戦で、真田氏の長男信綱、次男昌輝が討死したため、昌幸は真田家に戻って跡を継いだ。昌幸は智謀の将で、後年、上田城で徳川の大軍を二度にわたって破ったことは広く知られている通りである。昌幸の後に武藤家を継いだのが武藤三河守で、武田氏の奉行を勤めたと言う。
武藤三河守屋敷は、阿弥陀寺付近にあったと考えられている。阿弥陀寺は、武藤三河守が甲斐源氏加賀美遠光の崇敬した阿弥陀堂を整備したものと言われ、武藤氏の菩提寺であった。武藤家に入った若き日の昌幸も、この地に居住していた可能性は高いとされる。現在は宅地化で遺構は残っていないが、武藤家の所縁を伝える解説板が立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.583731/138.465157/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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